2016-03-31 第190回国会 参議院 総務委員会 第9号
今大臣から御答弁をいただきましたように、従来の解釈から変更はないとされているが、例えば、従来の答弁読んでみますと、総務副大臣は業務停止命令を行うことができると考えているけれども、極めて限定的な状況にのみ、かつ極めて慎重な配慮の下運用すべきものであるとして、逆説の接続助詞を用いて後半部分に答弁の重点を置いています。
今大臣から御答弁をいただきましたように、従来の解釈から変更はないとされているが、例えば、従来の答弁読んでみますと、総務副大臣は業務停止命令を行うことができると考えているけれども、極めて限定的な状況にのみ、かつ極めて慎重な配慮の下運用すべきものであるとして、逆説の接続助詞を用いて後半部分に答弁の重点を置いています。
てにをは、助詞のちょっと間違いというのもありまして、こうした間違いというのも正すということは大切ではないかと思います。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 前文の「に」の一字につきましては、一昨年の予算委員会において石原慎太郎当時の議員とお話を、議論をさせていただきまして、石原議員からこの助詞の使い方は間違っているという御議論があったことを記憶をしているところでございますが、いずれにいたしましても、我が党としては、午前の質疑で山谷えり子議員から御紹介がございましたように、我が党としては既に憲法改正の前文について、谷垣総裁時代
特に、現行の前文については、先日の衆議院予算委員会で我が党の石原慎太郎最高顧問が取り上げましたけれども、間違った助詞の使い方をしており、正しい日本語にするための憲法改正が必要であると考えております。 現行憲法はGHQが作成した英文が基となっておりまして、その中でも前文は、合衆国憲法、マサチューセッツ州憲法、リンカーンの演説などの継ぎはぎであります。
我が党の石原慎太郎最高顧問がさきの予算委員会で指摘したように、憲法前文は助詞が不正確な部分が多数あり、また、天皇の国事行為を定めた第七条には、国会議員の総選挙の施行の公示という、明らかに誤った記述もあります。
いかなる国語の文章の構成要素としても、名詞、動詞、副詞、助動詞、形容詞、助詞、間投詞、間投詞というのは助詞の一種ですけれども、俗に、てにをはと言われる助詞があります。これはごく小さな言葉でありますが、実は非常に深く重い意味合いを持つ言葉でありまして、てにをはなる言葉、つまり、これは助詞の総体をあらわす言葉ですけれども、この助詞というものは極めて重要な性格の言葉です。
この「君が代は」というものを古典文法に従って解釈すると、この格助詞の「が」と「の」を使い分けることができます。「の」、つまり「君の代は」とした場合には、自分よりはるかに上位の者に対する意味を込めた用法をされており、「が」、つまり「君が代は」と解釈する場合には、私自身と極めて近しい間柄の親愛なるあなた様というふうな解釈をいたします。
ここで言う「君」は何ぞやということになりまして、そもそも古典文法で言う格助詞の「が」と「の」の使い分けは当時されていたということをまずお伝えしたいと思います。何か朝から国語の授業みたいになってしまいました。「が」と「の」の使い分けを別に大臣にお伺いするわけではありません。申し上げます。
○藤本祐司君 今、787の場合はという限定の助詞を使われているので、それ以外はそうじゃないのかなというふうにうがった見方をすると出てしまうわけなんですが、我々というか、乗る、いわゆるカスタマーといいますか、そちらの立場からすると、これは安全だというふうに思って乗っているわけなんですが、こういう設計上の問題があるというふうに言われると、どの飛行機に乗ったらいいかというのが全く不安でしようがなくなってしまうわけなので
私も国語の教員を務めておりまして、また最近でも、大学で授業をしておりまして、リポートを書かせると、基本的な、小学校で習うような漢字の間違い、文章が主語と述語が合っていないとか、複文が複雑文になってしまっているとか、助詞の使い方が全くでたらめであるとか、一体小学校の先生は何をしていたんだと、リポートを採点しながらショックを受けております。
例えば、雨が降るかしらということの意味というのは、今の多くの辞典では「しら」と、終助詞ですけれども、それは知らぬの「ぬ」が落ちたものだということに一応なっております。つまり、雨が降ったかどうか分からないと、こういう意味ということが解説としてはあるんですけれども、しかし、この方の指摘ですと、全く違った研究成果を述べられております。
それから、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」云々とあるけれども、前置詞一つ、助詞一つの問題かもしらないけれども、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、」とは言わないですな、日本語では普通。欠乏を免れですよ。こういうところにやはり致命的な日本語の乱れがある。
古典文法の成立というのは、大体、中・後平安時代に確立したものでありますが、その「が」というのは、まさしく君が代というのは、「君が」で連体修飾語となって「代」に係るものでありまして、この場合の格助詞の「が」の使い方というのは、もう一つ同じような使い方として使える格助詞に「の」があるんです。「が」と「の」の違いというものをやっぱり授業で教えざるを得ないんです。
「君」は天皇を指し、「が」が所有の格助詞、そして「代」は国、つなげば天皇の国となり、その歌詞の意味は、天皇の国が永遠に栄えることを願うということになり、国民主権と両立し得ないものであることは明白ではありませんか。いかに装いを凝らそうとも、天皇統治礼賛の君が代の本質は変えることはできないのであります。
君が代、この三文字について既に皆さん方はいろいろ言ってきたけれども、結局、象徴天皇、それが「君」だ、「が」というのは所有の格助詞だ、「代」というのは転じて国だ、もっと詰めていったら国語的解釈はできないなんて言い出している。
そこで、まず阿部先生に、君が代を、天皇がを、いわゆる所有の格助詞の「の」にかえて、天皇の国、あるいは天皇の御代、あるいは天皇の時代、そういうふうに解釈すると、いかにも国民主権に合わないからという反対論もあるわけでありますけれども、しかしここは、我が国日本国憲法は象徴天皇として天皇制を位置づけているわけですから、君が代そのものの解釈にしても、そして君が代の歌詞そのものの解釈にしても、まさに象徴というところに
しかし、今回の君が代は、その後に続く助詞は「が」、それから「代」、そしてその後に続く歌詞は「さざれ石のいわおとなりて」、こう言っているわけですから、この場合の「君」というのは、私、正確にこれは天皇を指すと理解をしておいていいし、そして今回政府見解で、昔は主権者である天皇を指していたと、帝国憲法のときはそう言われていたが、現憲法のもとでは日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈が適当、この解釈はそれでいい
先日来明らかになったことは、「君」とは象徴天皇である、「が」とは所有の格助詞だ、そして「代」というのは時代的な意味から転じて国を意味する。そうすると、君が代というのは天皇の国という意味になります。その天皇の国が千代に八千代に栄えていくと、どうしても日本国憲法の主権在民の原理とは両立しないと思うのですが、そういうことについて子供に教えていくことがどんなに困難なことか、その点どうお考えでしょうか。
君が代の「が」は所有をあらわす助詞である。君が代とは、先ほど申し上げましたように、我が国のことである。こういうことでございます。
君が代の「が」は、所有の助詞でございます。 君が代は、日本国憲法下におきまして……(発言する者あり)「が」の意味は、所有の助詞でございます。
「君」に続く「が」は、所有をあらわす格助詞です。それでは「代」とは何か。「代」とは、一般的に、時、時代を意味します。そうなりますと、今回の政府見解でも、君が代とは天皇の時代という意味となり、この歌全体の意味は、天皇の時代が永久に続くことを願うという意味となるではありませんか。
そうしたら、格助詞の「で」、国で処理するという意味だというふうに書いてありますよ。この「国において処理する」というのはわかりにくい。政府の役所の人間に、こんなことが官僚の中で使われている言葉なのかと聞きましたよ。いや、余り霞が関でも使っていませんと。 それで、私、随分調べたのですよ、どこにあるのか。そうしたら、日本国有鉄道再建監理委員会の、この二百ページに及ぶ中に随分出ているのですよ。
例えば、ニュースを聞いておりましても助詞抜きというのがある。何々はとか、何々がの「は」とか「が」を抜いてしゃべる方が目につきます。NHKとは申しませんけれども、放送全般について。例えば「きょう日本航空ストライキに入ります。」こういうことをおっしゃいます。