2010-02-25 第174回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号
御指摘の市庭古墳につきましては、史跡には指定をされていないわけでございますが、学説によりますと、御指摘のように五世紀前半の築造であるということでございまして、平城京造営時に前方部が破壊をされたというふうに学説上はされていると承知をしてございます。
御指摘の市庭古墳につきましては、史跡には指定をされていないわけでございますが、学説によりますと、御指摘のように五世紀前半の築造であるということでございまして、平城京造営時に前方部が破壊をされたというふうに学説上はされていると承知をしてございます。
しかし、実際、平城宮跡の調査の過程の中で、もともと平城天皇陵と言われる古墳は前方後円墳で、そして、平城宮をこしらえるときにその前方部を削り取ったということが後になってわかってきた。すると、少なくとも、八世紀末から九世紀初頭でしたでしょうか、平城天皇がいた時代と、前方後円墳があった時代というのは三世紀、四世紀、五世紀ぐらいまでですから、明らかに時代的に違ってくるわけですね。
四年前の一九九八年、奈良県を直撃した台風で、日本最古の巨大前方後円墳、箸中山古墳が、通称箸墓ですが、前方部など甚大な被害を受けました。根こそぎの倒木もあって、無数の埴輪などが露出した。その後、初期の壷形埴輪とか特殊器台形埴輪など、宮内庁書陵部によって展示されて、大勢の方が熱心に見学したということが報じられているわけでございます。
つまり、平城京の現地域内に前方部だけを削られて平城天皇の陵になっている。円墳だと思っておったところが前方後円墳。その前にあったのも一つつぶしておるんですね。そうなりますと、都市計画のために古墳を削ったり、つぶしたりした事実がいま残っておるわけです。それを現在のわれわれが遺跡保存の立場からいま考えますと、これは理解できないことになります。
○説明員(平間修君) おっしゃるとおり、最初の調査期間というものは六月十日、その後延びまして二十日ということになっておったわけでございますが、たいへん詳細な記録調査を、保存のための調査をするためには期間が足らないというような話も承りましたので、私のほうといたしましても、その後、委員会と協議いたしまして、大体前方部の調査というものは七月の一日、六月一ぱいというところまで調査期間を延長すると、こういうように
元来、六月九日を期限として前方部の発掘調査を終了して、そうしてこれを取りこわして、取りこわしたあとには日通の研究所をつくる、寮をつくる、こういうようなことになっているのです。それを現地としては二十五日まで何とか延ばしてもらいたい、こうせっぱ詰まっている。きょう六月何日ですか。
○政府委員(宮地茂君) これは輿塚古墳は部落有の前方後円墳でございまして、最近、観光地としての開発に伴いまして、とにかく古墳の上に展望台を設けるという計画、あるいは古墳を削って土を取るといったようなことから、数回にわたりまして、この前方後円墳の前方部が一部破壊されておるようでございます。