1977-10-06 第82回国会 参議院 法務委員会 第1号
網走刑務所は、明治二十三年開設され、昭和四十三年Bクラス収容施設とされるまで長期受刑者を収容し、当初から農耕、牧畜、造林等の構外作業を主体として運営されてきたもので、現在千七百ヘクタールに及ぶ敷地総面積に耕地二百三十四町歩、山林千三百六十町歩を有し、常時収容人員の約半数を構外作業に出業させており、同所における二見ケ岡、切通等各泊り込み作業場における開放的処遇は画期的なものであります。
網走刑務所は、明治二十三年開設され、昭和四十三年Bクラス収容施設とされるまで長期受刑者を収容し、当初から農耕、牧畜、造林等の構外作業を主体として運営されてきたもので、現在千七百ヘクタールに及ぶ敷地総面積に耕地二百三十四町歩、山林千三百六十町歩を有し、常時収容人員の約半数を構外作業に出業させており、同所における二見ケ岡、切通等各泊り込み作業場における開放的処遇は画期的なものであります。
いまのお話を聞いてみると本郷の一角、切通の岩崎さんのところへ裁判所関係のものを全部集めればこれにこしたことはないけれども、予算措置がとうていそれができないと思ったので、次善策であるけれどもそれを一まず手離して、そして別の土地へ行こうというお話でありますが、一見してまことに合理的なようなお話ですけれども、この切通の岩崎邸というものの地理的な状態、それから歴史的な状態、ことに占領下においてはアメリカまで
○岩野最高裁判所長官代理者 御指摘のとおり、ただいま東京地方裁判所におきまして本郷切通の建物に関する訴訟が提起されておるわけでございます。これはただいま訴訟局及び訟務局からの依頼による訴訟代理人によって訴訟が進められております。
したがって、そのためには切通の岩崎邸を実は払い下げてほしいというような希望が東都起業でありましたか、そこの前身と申しますか、そういうところから請願が裁判所に出たわけでございます。それに従って交換の——払い下げということは裁判所としてはその当時何も考えておりませんでしたので、払い下げに関しては裁判所としては考慮しなかったわけです。
なおこの丸子多摩川のTCクラブへ連れて行かれる前には、文京区の切通坂の元岩崎別邸がやはり接収せられまして、何らかの諜報機関の根拠になつておつたようでありますが、そこにも連れ込まれた形跡があつたのでありますが、その元岩崎別邸に四十年前から勤めておつたと称する齋藤という老人が、やはり接収後もこのアメリカの公館の雇い人として—ボイラーたきだそうでありますが、勤めておつたのが、たまたまこの茅ヶ崎のアメリカの
○委員長(伊藤修君) 前にどなたかですね、尋ねられた時にですね、九月の十五日正午頃、自動車に乘つて病院を出て、午後四時頃帰りましたと、第二回目は、九月三六日午後四時頃、自動車で病院を出て、午後八時頃帰りましたと、尚あなたがですね、外出の途中に、午後の七時三十分頃ですね、尾津の乘つた自動車を文京区切通坂、岩崎邸横で見たことがあると、そういうようなことは間違いないですか。