2013-05-08 第183回国会 参議院 予算委員会 第15号
そして、若い青年たちがそれぞれの地域から出征兵士として送り込まれたときのあの姿も覚えております。 ところが、硫黄島で栗林中将の指揮する多くの兵士が、何万という兵士が死んで、今なお硫黄島の地下深く眠っておると言われております。一万人以上もまだ収骨がされていない。これが国家の姿かと。
そして、若い青年たちがそれぞれの地域から出征兵士として送り込まれたときのあの姿も覚えております。 ところが、硫黄島で栗林中将の指揮する多くの兵士が、何万という兵士が死んで、今なお硫黄島の地下深く眠っておると言われております。一万人以上もまだ収骨がされていない。これが国家の姿かと。
最近、我が国でも、アメリカにおける出征兵士を励ますイエローハンカチーフの掲揚という風習が定着しまして、良いことだと思っております。国民の派遣部隊や自衛隊が実施する訓練に対する更なる温かい理解を望んでおります。 以上でございます。
これは当時は出征兵士の御家族の方々が割と借家、借地におられたということがあったということでありますけれども、それからこの九一年、九九年に定期借地権とか定期借家法ということが制定されて、一遍貸したらもう返ってこないという考え方に立たないでほしいと、土地は利用するものでありますからという政策を打ってきたわけなんですけれどもね。
日の丸の小旗を振って出征兵士を送る日々のことや、ラジオから流れる軍艦マーチの前奏の後の大本営発表のことなどを思い出しました。自衛隊のイラク派遣を支持する人々の中にも、何で軍艦マーチなのか、まるで戦争に行くようなものだといぶかる人がかなりいました。自衛隊はまさに軍隊そのものであると強く感じました。今や日本は恐ろしい時代に突入したと、背筋の寒くなる思いがいたしました。
結局、先生先ほど出征兵士のお話をなさいました。今回は戦争に行くのではなくて、本当に困っているイラク人にどのようにして温かい手を差し伸べるのかということであります。
私、終戦が小学校の二年生でございましたものですから、やはり何となく出征兵士を送るあの姿というのは少しは記憶があるわけなんですね。日の丸の小旗を振って、万歳万歳といって送られていったわけでございますけれども、どうしてもその辺ともダブってしまうわけでございます。
あるいは、戦争中において、天皇陛下万歳、そして出征兵士を見送った人々の中にも、そそくさとやみ米を蓄えることに余念がなかった人々がいたことも事実であります。つまり、お国のためと申しながら、一方においては、庶民はしたたかに生きるために、自分の生きるためのすべをそのような形で、やみ米をせっせと蓄えるというようなこともやっていたわけであります。
小学校のときは、ほとんど日の丸の旗はもう小道具として必要なもので、絶えず身近なところに置いて、さあ、出征兵士を送るといえば持って出かけ、英霊が帰ってくるといえば旗を巻いて出かけました。学校に割り当てられた慰問文もせっせと書きました。よく意味もわからないのに新聞を読んで、満州の兵隊さんへ、酷寒のみぎり、匪賊討伐もさぞ困難でございましょうと書いていました。
私にとっても、私は出征兵士ですけれども、十八年に召集令状で高崎連隊へ入りまして、豊橋第一陸軍予備士官学校を卒業しましたが、卒業と同時にほとんど全部沖縄本島です。私は一中隊の一番で、教官で残った。三中隊の一番は伊藤淳二君ですよ。鐘紡の会長を長くやられて日航の社長になったでしょう。彼と僕は同期ですよ。
○国務大臣(大出俊君) 私、「ドキュメント太平洋戦争」というのを勉強したことがございませんので、合いきなりそういうお話を承りまして、これはとっさに頭にあることぐらいしか答えようがないんですけれども、私も実は出征兵士でございまして、高崎連隊に赤紙で持っていかれて、その後、豊橋の予備士官学校に持っていかれまして、私の同期、豊橋の十一期というのはほとんど全部沖縄本島に参りまして、一年間一緒に兵営でいろんな
いわば、日本が空襲を受け、各地で焼け出された人が出、あるいは私どもの身近から次々に出征兵士を送り出す、そしてその多くの人々が帰ってこなかったという記憶を持つ最後の世代であります。それだけに、過去の長い積み重ねの中で、そうした記憶を埋もれさせてしまってはいけないという気持ちから私は日本遺族会の会長をお受けすると会員の方々に申し上げました。そして、その気持ちで今日もおります。
私も出征兵士だけれども、召集令状で出ていった方はたくさんあるんだから。そうでしょう。 だから、死ぬに死ねない気持ちがあるんだから、そういう意味でぜひひとつここのところは皆さんのお知恵もかりたいので、これは官房長官、そこらのところを少し皆さんの方に、それなりの方々もおられるわけだから、その気になっていただけぬかという気がするんだが、いかがでしょうか。
出征兵士でございますから。しかも豊橋陸軍予備士官学校の十一期でございまして、卒業して見習い士官になった途端に、私は一中隊の一番だから幹部候補生教育の教育要員に残された。鐘紡の会長をやっておった伊藤淳二君なども、これは三中隊、私は一中隊ですが、一番だから教育要員で残った。ついこの間死んだ大正大学の学長の安居香山君なども教育要員で残った。
○参考人(藤井治夫君) 私は出征兵士になったつもりでがんばりますというふうな御発言がございましたが、そういう方向で日本列島を不沈空母にするというふうな方向でのがんばり方では、これは実際非軍事的手段による安全ということについて努力しているとは言えないと思うんです。むしろ逆行している。
そういう形で労働力を再配置しているので、出征兵士をやっているということをいま問題にしているわけではございませんから、その辺は誤解ないようにしていただきたいのです。 そこで、いま部品の問題が出ましたので私もその問題に入りますが、実は先ほど挙げたのはどちらかというとセットメーカーですね、松下とか日立とか東芝とか。
非常に苦労をしながら、かつての戦争中の経験のある者なら、何か出征兵士を送るような感じで送り出しておられるという実情も私ども知ってはおりますが、企業が何とも人員整理をしなければならぬ、傾いてしまうというのを座して待っておるより、やはり進んで現地と協力をしながら、中小企業にも協力でき、部品産業にも貢献できる。
まるっきりこの出だしというのは、私も実は召集による出征兵士でございますけれども、変わらないのです。同じです。行かなければ非国民と言われるのだから、憲兵がこの場合だって調べに来ているのだから。そうでしょう。全く変わらない。
政府として財政的な支援によってこれらの実態調査に協力してあげる、調査費その他を出してあげてこの実態を把握してあげることが、出征兵士と同じ気持ちで送出された十五、六歳、高等小学を卒業したばかりの可憐なる少年たちにも報いることになる。これらの諸君がもし生存して祖団に帰ったならば、いまや社会の中核的存在として活躍してくれたであろう。
そういう時代に余り区別を厳重にすることは問題があると私思いますし、顧みて、亡くなった人の家族、そして傷病の身となって祖国に帰った人々のことを思うと、出征兵士と同じ立場で送られ、帰ったときは戦没勇士と同じ処遇を市町村で受けておるということであるならば、余り厳しい制約を——援護法というものはそういう厳しいことを制約しないところに特色があるという趣旨を局長もお考えのとおりでございますので、ひとつこの問題についてはさらに
だから私は、ひた隠しに隠すんじゃなくて、やはりこれは国が国立病院なり各都道府県なり自治体なりにきちっとして、この種の異状があったりして聞いてきたという場合には、本人たちは悪いわけじゃないのですから、私も一銭五厘で召集を食った出征兵士だけれども、これはやむを得ざる事情なんですから、やはりそれなりのことを国が見てあげるというようなシステムが欲しいのですね。
一銭五厘で出征兵士で行ってきて、二カ月で片方は一時恩給をもらっているのにおれはもらえない、そんなふざけた話があるかということになる。無理もないでしょう。だから、その執念は認めて、それは二万円であっても三万円であっても、三年四カ月兵隊に召集をされて行ってきたという実績の上に立っての金だから、本人は納得できぬ。そういう意味では、これはぜひひとつ前向きで御検討いただきたい。
私もその一人で、私も出征兵士ですけれどもね。その二の舞いをやってきたことになる。それでは遺骨収集のていをなしていない。 だから、遺族会の方にしても、あるいは遺族に全く関係のない、日本青年遺骨収集団などという方々が百何人かおいでになる。この方のものなど読んでみますと、ずいぶん苦心しておられます。粗食にたえて、しかも街頭で募金をする。
成田というのは水よけの神さん、水難の神さん、そして昔、出征兵士が行くときにおかあさんやおとうさんが成田さんに行くと助かって帰るという時代ですが、航空機の発着を予想しなかった時代である。空よけの神さんとは限らぬ。