2020-04-10 第201回国会 衆議院 法務委員会 第8号
さらに、これを見ていただきますと、当時の内閣総理大臣の吉田茂さん、担当大臣の金森徳次郎大臣、そして内閣書記官長の林譲治さんが序というものを寄せているんですね。ちなみに、この林さんというのは、その後、内閣官房長官に就任されております。まさに当時のトップが序文を書いているわけで、事実上、当時の内閣が作成したという位置づけであります。
さらに、これを見ていただきますと、当時の内閣総理大臣の吉田茂さん、担当大臣の金森徳次郎大臣、そして内閣書記官長の林譲治さんが序というものを寄せているんですね。ちなみに、この林さんというのは、その後、内閣官房長官に就任されております。まさに当時のトップが序文を書いているわけで、事実上、当時の内閣が作成したという位置づけであります。
そういったところの中にあって、是非、福山先生の今の御指摘ですが、正面攻撃が有効であるということに関しましては私も同じ思いですが、御指摘の点につきましては、自ら決めた閣僚というのは自ら発表するというのが当たり前なんだと思っておりまして、昔の何となく内閣書記官長と言われた時代の名残が残っているのがずっと続いただけのことだと思っておりまして、官房長官が代行する方が変だと昔から思っておりましたので、やらしていただきました
○麻生内閣総理大臣 まず最初に、自分で説明して、官房長官にというお話がありましたが、これは大分昔の話で恐縮ですが、旧帝国憲法のときは、官房長官は内閣書記官長といいました。
鈴木貫太郎は、内閣書記官長の迫水久常にこう言ったそうです。いろいろ人が中傷したりして苦しいだろうが、人が何と言おうと、信じたとおりどんどんおやりなさい。 僣越ではございますが、この言葉を私は総理にお贈りいたします。
私が宮澤喜一という名前を初めて知ったのは、「日本のいちばん長い日」という終戦秘話を書いた本を読んだときでございまして、たしか私の記憶では、あのとき、若き日の宮澤さんは迫水内閣書記官長の秘書官か何かという、そういうふうな御紹介で載っておったような記憶がございます。戦前から現在に至るまで、とにかく日本の中心にあっていろいろなことをごらんになられ、いろんな御所見をお持ちだろうと思います。
○山口哲夫君 ここに「昭和大礼要録」というのがあるんですが、これは大礼記録編さん委員会ということで、内閣書記官長の鳩山一郎さん初め内閣統計局長、法制局長官等によってつくられたものでありますが、それを見てみますと、「即位礼の淵源は天照大神が皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を天つ高御座に即かしめられ、天璽の神器を授け給ひて瑞穂国統治の神勅を賜ひたるに由来す。」と、こういうふうに書いているわけですね。
その代表的なものとして内閣書記官長というポストがつくられた。これは今の官房長官の前身であります。それから内閣調査局長官。後藤田長官は長く役人暮らしをされているからその経過を御承知ではないかと思うんですが、内閣調査局長官、それから情報局総裁というのが戦争中つくられました。
その後、昭和二十年、大東亜戦争の敗戦がいよいよ決定的となった情勢下で成立いたしました鈴木内閣のもとで、君は内閣書記官長に起用され、終戦の早期実現を目指す総理を補佐し、生命の危険をも冒して終戦工作を進められたのでありまして、終戦の詔勅草案は君の起草に係るものでありますことは、すでに周知の事実であります。
そして、引き続き幣原内閣の国務大臣兼内閣書記官長の要職につかれて、混乱をきわめた戦後の事態に対処されるとともに、新憲法の政府草案起草に夜を日に継いで尽瘁されました。
しかし私は、官房長官を国務大臣にするということは、これは先ほど官房長官もお答えになっておりましたが、長期的な観点から見るならば、やはり内閣の機能の強化の第一歩でもある、かようにも理解されるわけでありますし、さらに内閣の中枢であり、従来内閣の大番頭ということばでよく表現されておりますように、官房長官、昔の内閣書記官長というものは、きわめて重要な政府においての役割りを果たしてまいってきておるわけであります
昭和十七年、君は政界に志して次官を退き、第二十一回衆議院議員総選挙に青森県第一区から出馬し、みごとに当選され、昭和十九年には、その力量才幹を認められて、小磯内閣の法制局長官兼内閣書記官長の重職に迎えられ、多難な時局に身をもって当たられました。
昭和十二年、第一次近衛内閣の成立に際し、近衛首相の懇望によりまして内閣書記官長の重職につかれ、非常な期待をもって世の中からも迎えられたのでありますが、はたして野人風見、野人書記官長として内外から好評を博されたのでありました。次いで、十五年七月、第二次近衛内閣に司法大臣として入閣されました。
○国務大臣(楢橋渡君) ただいま御指摘のありました戦時徴用した民間の船を国家が戦争目的のために使ってこれを沈めておきながら、なぜあの補償を与えておらないということは、今御指摘の通りでありますが、私は当時関係の大臣ではありませんから何ですが、当時私が内閣書記官長をしておりました当時、マッカーサーのとりました政策等から推測いたしますと、やはり日本の経済的な国際的発展力というものを減殺といいますか、日本のやはり
同年五月、第一次吉田内閣成立の際には、君は嘱望されて内閣書記官長となり、また昭和二十三年・二十四年の第二次及び第三次吉田内閣には、副総理として入閣して厚生大臣に就任されました。 君は、戦後の最も重大かつ困難な時代に、新憲法並びに付属法律の制定にあたって、議会との折衝に日夜肝胆を砕くなど、よく吉田総理を助けて国政の処理に当たり、民生の安定に著しい貢献をされたのであります。
お手元の履歴書で御存じのように、大橋君は、大学卒業後逓信省に入り・郵務局長、経理局長、逓信次官等を歴任いたしまして、その後法制局長官、内閣書記官長兼内閣調査局長官となり、昭和十二年六月、退官後は日本無線電信株式会社社長、日本放送協会会長に就任いたしましたが、同二十七年八月一日、日本電信電話公社経営委員会委員となり、同委員会の運営に尽力し、現在に至っておるものでありまして、現に財団法人前島会の会長の職
お手元の履歴書で御承知のように、大橋君は大学卒業後逓信省に入り、郵務局長、経理局長、逓信次官等を歴任せられまして、その後法制局長官、内閣書記官長兼内閣調査局長官となり、昭和十二年六月、退官後は日本無線電信株式会社社長、日本放送協会会長に就任いたしましたが、同二十七年八月、日本電信電話公社経営委員会委員となり、同委員会の運営に尽力し現在に至っているものでありまして、現に財団法人前島会会長の職にあるのであります
戦後、東久邇内閣成るや、国務大臣兼情報局総裁及び内閣書記官長として、当時の政治、経済、社会等、異常な混乱の中から、きわめて困難な戦後処理の重要な任務に当って大きな功績をあげられました。 昭和二十六年十二月自由党に入党、政界に入られたのであります。
たとえば、あなたが先ほどから印刷の能力ということをおっしゃいますが、歴代の官房長官ないしかっての内閣書記官長というものは、国会に対する重要な政府の代表機関です。印刷能力や技術を知らないことはない。あなたは二十二国会においても、二十三国会においても、政府予算案を提出して、そうして印刷局の印刷能力や技術を調べて、この委員会に説明されたことは何べんもある。
そこでちょっと申し上げてみたいのですが、鳩山総理が内閣書記官長をやられ、文部大臣をやられておりました大正の末期から昭和の初めにかけて、あの当時においてざえ、毎年の国の財政と地方財政の比率は、大体国の一年間の財政収支を一〇〇といたしますと、地方府県市町村の財政収支の合計は、少いときで一二五、多いときには実に一三五というような数字になっておったんです。