2020-02-21 第201回国会 衆議院 予算委員会公聴会 第1号
医師である彼がこのようなインフラについて言及したということでありますが、彼は、内村鑑三の「後世への最大遺物」というのを愛読していたと聞いています。 内村鑑三は、この本の中で、人は生涯をかけて後世のために何を残していくのかということについて書いています。
医師である彼がこのようなインフラについて言及したということでありますが、彼は、内村鑑三の「後世への最大遺物」というのを愛読していたと聞いています。 内村鑑三は、この本の中で、人は生涯をかけて後世のために何を残していくのかということについて書いています。
いずれも学校教育の中でどのような思想が教えられたのか、教科書によっては内村鑑三事件、不敬事件と言われますが、のように社会的な思想弾圧にも影響を及ぼしたなどが記述をされております。 ただ、国会図書館に調べてもらった教科書記述を見ていると、二つぐらいの教科書の教育勅語現代語訳がそのまま載っているんですが、正確に訳されていないというものも散見されます。
内村鑑三不敬事件というのは、明治二十三年の十月に教育勅語が発布を、公布をされる、それから年末にかけて各学校に教育勅語が配られる。そして、翌年の正月に、始業式のときに、この教育勅語の奉読式というところが多くの学校で行われます。内村鑑三は、高等第一中学校でしたか、今の東京大学の教養学部の前身になる学校ですけれども、ここの教師をやっておりました。
私はクリスチャンではございませんから、真の意味で内村鑑三の本当の心境というのはわからないかもしれませんが、しかし、教育勅語というものが、全体として、ある意味で宗教的な文脈の中で迫害や弾圧というものに利用されてきたというこの歴史を思えば、このものを学校教育の中で、歴史教育以外の部分で、観点で、あるいは社会教育、政治教育とかそういうこと以外の部分で取り扱うのは不適切ではないかというふうに思っておる次第であります
常に時代の制約のもとで文言が書かれ、そして論議が行われるということは、これは必然のことであろうというふうに思いますし、この憲法が昭和二十一年あるいは二十年という時を背負いながら必死に論議をされたということを踏まえても、日本人論ということでいうならば、一九〇〇年、ちょうど百年前、区切りのときに、例えば、一八九四年に内村鑑三が「代表的日本人」というのを書いた、一八九九年に新渡戸稲造が「武士道」というものを
この二宮尊徳翁は、実は内村鑑三さんが日本を代表する五人の一人に挙げております。御案内のとおり、西郷隆盛公、上杉鷹山公、そして二宮尊徳翁、中江藤樹先生、日蓮聖人、五人挙げておりますけれども、そうした中で、内村鑑三先生はさらに、尊徳翁については後世への最大の遺物と評価をいたしました。後の世への遺跡のような人物だ、そういう高い評価を下しております。
最初のこの議論の前に、実は内村鑑三という方がおられて、この人は世界的に活躍したキリスト教徒でありますけれども、この方が北海道を去るときに、私は学問に育てられたのではなくて北海道の自然に育てられた、こういうふうに名言を残されました。 私も、この北海道、昔いたときには大変道民の皆さん方にもお世話になりました。
そういう意味で、例えば、公明党の関係の深い創価学会なんかの場合は、戦争中に、創価学会の前身である創価教育学会の初代の創立の牧口常三郎先生が、東京の小学校の校長をやられていたり、すぐれた地理学者だったわけですけれども、内村鑑三先生とも深いかかわりがあって、その方が、その当時、治安維持法とか宗教による不敬罪で捕らえられて獄死するという宗教弾圧を受けておられるんですね。
○佐田国務大臣 先生が今言われたように、北海道というのは非常に特殊で、オホーツク海があり、国際性が豊かですし、そういう意味においては、自然を愛して、非常に北海道の特殊性、昔、内村鑑三という方がおられまして、御存じですか、国際的なかけ橋になってキリスト教を中心にやられた方、この方が北海道を去るときに、私は学問に育てられたのではなくて北海道の自然に育てられた、それほどまでに特殊性があり、代表的な地域であるというふうに
○丸谷委員 内村鑑三は、私も授業でしっかり習いまして覚えております。 本当に自然が人を育てる北海道でございますけれども、そういった意味においても、今回の北海道をモデルとしました本法案を審議するに当たって、いろいろな、賛否両論あるのも承知しております。
岡倉天心の「茶の本」、内村鑑三の「代表的日本人」、牧口常三郎の「人生地理学」などは、いずれも一九〇〇年前後の著作であります。今まさに、グローバルな時代における日本の未来を考えるときに、アイデンティティーの問題を、長い歴史的スパンと文化を常に念頭に置き、考えるべきであります。
それで、野党でさえ、あるいは内村鑑三さんすら是認した、満州に進出していくようなこと、それを石橋湛山さんは、そんなばかなことをするんじゃない、人の国の土地をとって日本人がどんどん出ていくというのはおかしいんだと。今は小学校三年生でもそれは正しいというのはわかっていると思います。しかし、そのころは、植民地に出ていくのはだれも疑問を感じなかった。
古くは新渡戸稲造や内村鑑三、そして最近は藤原正彦氏がその精神を説いておりますが、私は、一言で言えば、己を捨てて人を立てる精神、ある意味では、論語の孔子が言っているように、恕の心、人を思いやる心、これが私は武士道の基本的な精神だというふうに思っています。 そういう中で、総理はいろいろと歴史上の人物を引用いたしますが、その引用の仕方には、私は、ずばり申し上げて二つある。
私は、内村鑑三が、デンマルク国での話という小さな講演を読んだことが中学校のときありますけれども、あの国は、ツンドラ地帯であったところを植林をすることによって地温を変え、気温を変え、今日の酪農というものをつくってきた。
新渡戸稲造の「武士道」、あるいは岡倉天心の「茶の本」や内村鑑三の「代表的日本人」、あるいは牧口常三郎の「人生地理学」、そうしたものは、やはり文明というものが大きく受容される中で、日本という国はどういう国であったかということを改めて問いかけるという作業が行われたんだというふうに思っております。
保障する思想、良心の自由、十九条、学問の自由、二十三条及び言論の自由、二十一条を確保するとともに、人類の平和のために努力を尽くすということを、学術会議は、戦後、最初に発足したときうたっていますが、私は、だんだん時代とともに、忘却の中には、そういう憲法の、戦前、抑圧されて、弾圧されて、学問研究の自由がなかった中から、滝川事件その他いろいろありましたけれども、あるいは、キリスト教でいえば無教会主義の内村鑑三
例えば、ちょっと例を挙げて申し上げますけれども、日露戦争で与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」という詩が書かれている、また内村鑑三の名前は出てくるけれども、東郷元帥や乃木希典の名前はほとんど出てこない。また、日本が朝鮮半島で行ってきたことは、悪いことばかり書かれておって、いいことはちっとも書かれていない。
それから、内村鑑三先生が「代表的日本人」というところでお書きになっておりますけれども、やはり、今も大臣もお話ありました、子供と向き合って顔と顔、そして魂と魂の触れ合いが大事だと、こうおっしゃっている。
ちなみに、町村文部科学大臣のおじい様の町村金弥さんは札幌農学校の二期生、新渡戸稲造さんとか内村鑑三さんと同期であったというふうに伺っております。 今、野党共同提出者の藤村議員からのお話、校長会のデータ、そのようなものをお聞きになられまして、いかがお考えでございましょうか。
話を戻しますけれども、戻さないのかな、今からちょうど百一年前に新渡戸稲造は、ヨーロッパ人たちから、一体おまえたちの国で宗教教育があるのか、宗教教育もないままにどうして日本国民にモラル、道徳というものが植えつけられるのかという激しい批判を浴びて、彼は御存じのように「武士道」という書物を書き、同じ時期に内村鑑三は、発表されたのは一九〇五年の日露戦争の後でありますが、やはり「代表的日本人」というものを書いて
私は内村鑑三ではないんです。私は、現実の事態に即して、今まさに世界に展開されている現実の事態に即してこの主張をしています。そこを誤解しないでください。私が勝手にひとりよがりの理念を述べているのじゃなくて、私はあくまで現実の事態に即して話をしようとしています。
今からちょうど百年前、一八九九年に新渡戸稲造さんが「武士道」という本を書かれ、それから五年前の一八九四年だと思いますが、内村鑑三さんが「代表的日本人」というのを書いたり、あるいはちょうど百年前に夏目漱石はロンドンにいて、皆そういう百年前のすぐれた人たちが考えていたことは、ヨーロッパ社会というものに日本は文明的におくれている、追いつかなくてはいけないし、受容しなくてはいけない。