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12件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1995-03-16 第132回国会 参議院 厚生委員会 第4号

京都でお聞きしましたが、こういう満蒙青少年義勇軍合格証明というのは府が行って、制服や制帽や靴を支給し、京都府の職員が引率をして茨城県の内原訓練所に送り込んでいる、こういうのがその子供たちを集めて送った経過です。  つまり、行政機関を通じて人員を割り当て、なかなか集まらないので最終的には学校に伝達をし、教員や学校長が児童や父母の説得に当たって連れていった、こういうことです。

西山登紀子

1995-03-16 第132回国会 参議院 厚生委員会 第4号

内原訓練所資料、一九四七年八月十五日現在というのがありますが、これでは、全国で義勇軍は六万九千九百十七名、訓練生は、一万一千九百八十六名、合計九万一千九百三名というような数であります。これは内原訓練所資料ですから、幾らでも手に入る資料でございます。ですから九万一千九百三名、こういう子供たちが遠い戦地で苦労をさせられたということです。  

西山登紀子

1980-03-06 第91回国会 衆議院 社会労働委員会 第4号

開拓団訓練所があったかどうかというのを調べるために内原訓練所訓練生名簿をと、こう受け取られては困るわけでございまして、要するに基礎内原訓練所の卒業生といいますか、終了生名簿から始まると思いますから、いま申し上げましたように、五年間の開拓団訓練所があったという当事者の指摘もありますから、もちろんそれも調べていただく必要はあるでしょう。

森井忠良

1980-03-06 第91回国会 衆議院 社会労働委員会 第4号

森井委員 これは去年も申し上げたので恐縮でありますが、関係者の言い分によりますと、内原訓練所で約二カ月、そして現地基礎実務の三年の訓練を受ける、その後が問題なんでございますが、去年も私、具体的に指摘をいたしましたけれども、その後、それは期限は五年と聞いておりますけれども、開拓団訓練所というのがあったのではないか、つまり、訓練はどういう形か知りませんけれどもさらに五年間あったという関係者指摘がございます

森井忠良

1980-03-06 第91回国会 衆議院 社会労働委員会 第4号

内原訓練所に入った方がいらっしゃるわけですね。去年質問をいたしましたら人数まではお答えがございました。それでは、内原訓練所に入った方々固有名詞まで把握していらっしゃいますかと聞きました。たとえば、援護局業務課が持っておりますような軍人等軍歴、そういったものと同じように内原訓練所から満州に旅立っていった方々名簿人数は昨年明らかになりましたが、固有名詞がありますか。

森井忠良

1979-04-24 第87回国会 参議院 社会労働委員会 第5号

さかのぼるとするならば、内原訓練所あたりからずっと調査をするということも含まれているとは思いますが、それが一つですね。  それからもう一つは、この三年間の訓練所を終えて義勇隊開拓団として入植をする、その第一期生はたまたま昭和十六年に当たるわけですね。その昭和十六年というのは、御案内のとおり、昭和十六年の十二月八日の日に太平洋戦争が始まっているわけです。

穐山篤

1979-03-01 第87回国会 衆議院 社会労働委員会 第6号

森井委員 少なくとも、去年の附帯決議開拓団の問題について究明をしろということになっているのですから、これは基礎的な資料ですね、内原訓練所へだれが入ったというぐらいのことは。いま厚生省陸海軍の当時の資料についてはかなり詳しいものを持っておりまして、たとえば通算年金等の請求の場合に、軍歴その他非常に貢献をしていらっしゃるわけです。

森井忠良

1972-06-12 第68回国会 参議院 内閣委員会 第20号

一例を申し上げますと、満州開拓義勇団というのが当時つくられておりましたが、それは内原訓練所先生が主として行ったわけでありまするが、そういった方々は、公務員を退職していただきまして半強制的に向こうへ行きまして、開拓団先生をやっていただいた。全くその職務の内容は、日本先生と同じような仕事をやっておられた、こういう方々

平川幸藏

1971-04-28 第65回国会 衆議院 内閣委員会 第19号

これは山中先生、あなたも御存じのように茨城県に内原訓練所というのがあって、そこで訓練をして満州へ送り込んだ数万の部隊があるわけなんです。その数万の部隊満州でどういうふうな働きをしたかが終戦当時のどさくさでわからぬままに消えていった悲壮な若人がおる。みんな青年ですが、そういう人々の功績が材料がつかめないために、こちらで証拠がなしというので処遇がされてない人がまだたくさん残っておる。

受田新吉

1967-05-15 第55回国会 参議院 予算委員会 第14号

これは当時内原訓練所に三カ月ないし六カ月教育を受けて現地に行くというと、これはもう当時の関東軍は、おまえらこそわれわれの片腕だと言って、いきなり義勇軍として使ったわけですよ。三年たつと大体土地をもらって、当時やはり家畜を所有したり、農機具を持って一応そこに定着した者も相当の数おります。そういう人たちが一体現在生き残って帰ってきて、たいへんな片手落ちの処置に対してふんまんな気持ちを持っておった。

小林武

1961-05-16 第38回国会 衆議院 内閣委員会 第35号

その人々を、まず満州移住協会が中心になって、内原訓練所訓練をした。その当時は拓務省嘱託ということで義勇軍に俸給を支払い、満州に参りましてからは拓務省嘱託を離れて、満州義勇隊訓練本部の法人の職員になった。この方々の前身は、おもには学校先生方が多うございまして、その方々義勇隊訓練本部終戦後は解体いたしまして、また日本へ引き揚げてきて学校先生をしていらっしゃるという方もおると思います。

八巻淳之輔

1955-07-15 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第12号

その訓練所が、中央的なものと地方的なものとありまして、各地にあったわけでありますが、これは、内地から送り出すときには、各農村等学校に相当強く要請いたしまして選出されまして、内原訓練所におきまして訓練を受けて、満州に渡って、そこで一定期間間訓練を受けまして、それを卒業いたしますとそれぞれ開拓団に配属されたわけであります。この配属される前の状態が開拓青年義勇隊であります。

田邊繁雄

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