2018-12-05 第197回国会 参議院 政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会 第3号
このような中、米国も妥協せざるを得なくなり、一九七二年の復帰に先立つ一九六八年十一月十日、初めての行政主席選挙、主席公選が実現し、屋良朝苗氏が初の公選主席に選出されました。このときの投票率は八九・一一%に上りました。一九六八年、私は高校二年生でしたが、復帰の四年前まで、沖縄では県知事選挙に当たる行政主席の選挙権すら認められていなかったことを是非改めて知ってほしいと思います。
このような中、米国も妥協せざるを得なくなり、一九七二年の復帰に先立つ一九六八年十一月十日、初めての行政主席選挙、主席公選が実現し、屋良朝苗氏が初の公選主席に選出されました。このときの投票率は八九・一一%に上りました。一九六八年、私は高校二年生でしたが、復帰の四年前まで、沖縄では県知事選挙に当たる行政主席の選挙権すら認められていなかったことを是非改めて知ってほしいと思います。
初の公選主席で沖縄返還の課題に取り組んだ屋良朝苗主席は、政府に提出を用意していた建議書に、次のように述べています。 アメリカは沖縄に、極東の自由諸国の防衛という美名のもとに、排他的かつ恣意的に膨大な基地を建設してきました。基地の中に沖縄があるという表現が実感であります。百万の県民は、小さい島で、基地や核兵器や毒ガス兵器に囲まれて生活してきました。
御承知のように、初代の公選主席、そして初代の沖縄県知事であられました。 一九六九年十一月二十二日に佐藤・ニクソン会談で七二年沖縄返還が合意に達した。そして、歴史的な日米共同宣言が発表されました。それを受けて、十一月二十六日に佐藤総理一行が羽田に戻ってくる。そのときに、主席みずからが上京して羽田で出迎えるかどうかと大きな問題になったことがございました。
○喜屋武眞榮君 これは要望にしかならぬと思いますが、いまおっしゃるとおり、沖繩の場合には特殊な事情がありまして、あの任命主席時代から公選主席に移るその直前のどさくさの中で、それがかけこみ企業みたいになったり、それから復帰直前と直後のその間隙を縫うていろいろなことがあったり、こういったかけこみ企業その他のことが一ぱいあったわけなんです。
屋良主席は、初の公選主席として当選されましたとき、七四%の支持率を得られました。そうして民族指導者として大きな役割りを果たしてこられましたことについてはだれもが認めているところでございます。 総理大臣は——お伺いいたしますが、あらためてこの復帰措置に関する建議書というものを御自分の手にとってお読みになりましたでしょうか。そうしてその御感想はいかがなものであったでしょうか。
政府は、かねて施政権の早期返還に努力してまいりましたが、さらにこの主席公選を通じて表明されました沖繩住民の意思をも考慮して今後の沖繩問題に対処してまいりたいと考えておりますが、同時にまた、新しく公選主席に選ばれました屋良主席を中心とする琉球政府と協力しつつ、沖繩の諸懸案の解決について努力いたす所存でありますので、琉球政府においても格段の努力をされるよう期待するものであります。
政府は、かねて施政権の早期返還に努力してまいりましたが、さらにこの主席公選を通じて表明されました沖繩住民の意思をも考慮して今後の沖繩問題に対処してまいりたいと考えておりますが、同時にまた、新しく公選主席に選ばれました屋良主席を中心とする琉球政府と協力しつつ、沖繩の諸懸案の解決について努力いたす所存でありますので、琉球政府においても格段の努力をされるよう期待いたしておるのであります。
御承知のとおり、去る十一月十日、沖繩におきまして県民の民意による初めての公選主席が選ばれ、また、去る第十五回の日米協議委員会におきましては、沖繩住民の国政参加の実施のため必要な措置について、日米双方が沖繩住民の要望を考慮しつつ相互に協力することの合意を見たのであります。ここに沖繩問題は解決への新しい曙光を見、その第一歩を踏み出したと申せましょう。