2012-06-15 第180回国会 衆議院 法務委員会 第8号
今お話があったように、日直が行われたのは二日、全員釈放したのは六日、二人がそのまま任意捜査ということなんですよね。なぜ公表をしなかったんですか。
今お話があったように、日直が行われたのは二日、全員釈放したのは六日、二人がそのまま任意捜査ということなんですよね。なぜ公表をしなかったんですか。
別に釈放をするなと言っているんじゃないんですけど、十二人も一遍にというのは大変多いし、その理由も、そのときに庁舎が別に使えなかったわけでもなく、避難地域でもなかったということで、私、いわき市のことは大変遺憾に思っているんですが、この福島の自立更生支援センターも、震災直後に、そこにいた入所者を全員釈放しているんですよね。それなので、予定より早く釈放しているんですよね、全員。その理由は何なのか。
○国務大臣(平岡秀夫君) 先ほど委員が全員釈放したのではないかというお話がありましたけれども、いわき支部につきましては被疑者十六名のうち十二名について釈放したと。そして、二名については被疑者として釈放しましたけれども、別件の起訴後勾留を継続をしたということでございます。 先ほど、再犯に及んだ者は誰なのかということのお話が、どの部分なのかというお話がございました。
そして、それに先立ち、地検では勾留をしていた被疑者を全員釈放する、処分しないで釈放するということがあり、その中には女性の家に押し入って手錠をはめて性的犯罪を犯すという、そういう容疑者もおりましたし、釈放されたうちの被疑者がまた再犯を起こしたということも起こりました。 あの当時、いわき市は避難地域でありませんでした。三十キロまでが屋内退避です。
身柄を預かっている警察の方で安全性が担保できないというんだったら、全員釈放しなきゃおかしいですよ。一部は残して一部は釈放するというこのばらばらの判断、これはどう考えてもおかしいんじゃないかなと私は思います。 いずれにしましても、時間がないですから、次に行きたいと思うんです。 検察の在り方検討会議、この前提言書を出しました。
これは、逮捕後十日間の勾留が付いて全員釈放されたということでありまして、果たしてそもそも集団的示威行動と言えるのかどうか極めて私は疑わしいと、聞いた範囲でございますけれども。外形的な事実から見て極めて疑わしいにもかかわらず、事前警告もなしに一挙にそれを言わば抑え込もうとした。 これを私はやっぱり見まして、いろいろ、ごく普通の若者だったようであります。
また、北方領土周辺海域で拿捕、連行されました漁民は、現在までに全員釈放され帰国いたしております。したがって現在抑留者はおりません。 漁船につきましては、銃撃を受けまして沈没した船が一隻、未帰還が一隻となっておりますが、これ以外は返還されているという状況でございます。
ただ、これは平和的解決をあくまで求める最後の機会を与えたものだというのが国際社会のおおよその一致した認識でありましたが、それにこたえるように、当初の決議の三つの原則のうちの一つであった人質の全員釈放という問題が約一週間後に起こったということは、これは朗報でございましたが、まだまだクウェートからの撤退という問題については何ら行動も起こっておりません。
そういう流れの中で一日も早く人質の方々が全員釈放されて帰っていらっしゃるように、ごく最近もイラクは四名という釈放をしましたけれども、それはそのこととして評価はしますが、しかし全員を返してもらわないとこの問題の根本解決にはならない。あらゆるレベルの政治対話やあるいは外交的な努力を今日も行い続けておるわけでございますので、どうぞ御理解と御協力を賜りたいと考えます。
この二、三日、相次いでフランスの全員釈放であるとかイギリスのヒース元首相の訪問によるイギリス人であるとか、こうした釈放の報道がなされております。
とりわけ在日韓国人は、若干の減刑がありましたが、全員釈放されなかったということで私は大変遺憾に思っているわけであります。 先般の日韓外相会議などで公式にはともかくとしても、非公式にせよこの問題は話題にはならなかったのでしょうか。
台湾出身の戦犯の方は百八十八名、そのうち刑死した者二十一名、獄死した者が五名で、昭和三十一年十二月七日までに全員釈放が完了いたしていると聞いております。 なお、詳細な実態につきましては関係資料を昭和三十二年以降、戦争裁判に関する資料は一元的に法務省で保管するということでそちらの方に移しておりますので、概要は以上のとおりでございます。
抑留漁民の釈放につきましては先生御案内のとおり、昨年秋以来わが方が非常に強くソ連側に申し入れた結果、昨年の十二月にソ連邦結成六十周年の恩赦という形で、当時抑留されておりました二十九名の漁民が全員釈放されたという経緯もございます。
○宮澤国務大臣 人質が全員釈放されました場合には、経済措置をとりました基本的な原因が解消するということになると思いますので、その際には、EC諸国とも緊密な連絡の上、経済措置を解除いたすことになろうと存じます。
そういうときにあの反対同盟の人たちが、今後話し合うという問題に関連をして、逮捕者の全員釈放ということを要求している。法務大臣はこの問題について絶対そういうことをやる考えはないというお話がございました。
そのときは六人の人たちが全員釈放された。
そしてその一つの中に、対話路線に対する声明の中で、逮捕者全員釈放を対話条件の一つに入れておりますが、これは申し上げることもなく、司法制度の根幹に触れる問題になるのじゃなかろうかと思いますが、この点について一言伺っておきたいと思います。
その説得の過程において政府派遣団長が冊子を交付する、渡すということ、これは実際上は奥平に渡されたものではなくて、マームドという参謀長がおったわけでございますが、この方に渡されたわけでございますけれども、これはやはり乗客全員釈放の可能性は最後まで尽くすべきであるという緊急の御判断上なされたというように後から拝承しておるわけでございます。その意味では、奥平の乗機後四十数名近く乗客が釈放されました。
特に大方針として一応犯人の要求をのむということになりました後に、日本政府としては、そういう決定をした以上、ダッカにおいて人質の全員釈放を実現する、そういう点を確実にした上で、こちらから持ってまいりました釈放した犯人あるいは身のしろ金と言いますか六百万ドルを渡したい、こういうことで交渉いたしたわけでありますけれども、マームド参謀長としてはその点は任してくれ、まず犯人側がとりあえず解放に同意しておる五十九名
ダッカにおきます当時の状況でございますが、当時におきましては、まず人質全員釈放のためのできる限りの、しかも、最後の可能性をどこまでもとにかく試してみるというふうなそういう状況にございまして、石井団長が緊急の判断によりまして、やむを得ざる処置として、旅券冊子六冊を、その時点におきまして、犯人奥平の最終説得に当たっておりましたマームド参謀長に対しまして手渡しまして、奥平にそれを渡すか否かの判断を一任されたわけでございます
十月一日午後二時半ごろ、石井団長以下が現地に到着し、人質の全員釈放について努力しましたが、犯人側は六百万米ドルと釈放囚人六名とを引きかえに乗客五十九名を解放することに固執いたしました。 十月二日早暁、犯人側とマームド参謀長との合意により、釈放囚人六人及び六百万米ドルと人質との交換を六回に分けて実施することになり、午前七時過ぎまでにこの条件に基づき、人質六十人が解放されました。
そのうちにだんだん時間が経過をしてきて、いよいよ最後の午前二時という時間の制限を犯人側からやったわけでありますが、われわれとしては石井団長に対して、石井団長はまた現地で、バングラデシュですべてを解決したい、全員釈放したい、こういうことが第一でありまして、全員釈放の条件がかなえられない間は犯人並びに身のしろ金は渡すなということで石井団長も粘り、われわれも粘ったわけであります。
それからアルジェリアに対する交渉は、一つは、政府は何とかしてバングラデシュで最終解決をしたい、ここでぜひ乗客を全員釈放するように御努力を願いたい、なお各国ともこの飛行機を受け入れする国がありませんから、飛び立ったらそれこそ人命に影響するから、そういうわけでひとつ行く先がわからないうちは絶対に離陸はさせないでくれ、こういう強い要請をやっておりました。