2012-05-31 第180回国会 衆議院 憲法審査会 第6号
私は全共闘世代です、団塊の世代で。ですけれども、そのような会合とかそのような主張は一切受け入れられない、そういうことには参加せずにまいりました。それから比べると、大分変わってきたのではないかと思います。 私は、自衛のための軍隊は絶対持ってしかるべきだと思います。それをよくないなどというのはおかしいんですね。
私は全共闘世代です、団塊の世代で。ですけれども、そのような会合とかそのような主張は一切受け入れられない、そういうことには参加せずにまいりました。それから比べると、大分変わってきたのではないかと思います。 私は、自衛のための軍隊は絶対持ってしかるべきだと思います。それをよくないなどというのはおかしいんですね。
○国務大臣(与謝野馨君) 私はどちらかというと全学連の世代に属しておりますが、その後の世代は、我々は全共闘世代と呼んでまいりました。(発言する者あり)
○山本一太君 与謝野大臣は、なぜこの政権が全共闘時代の新左翼崩れが集まってつくった政権だと、そういうふうに思われたんでしょうか。
○山本一太君 与謝野大臣が、この政権を全共闘時代の新左翼崩れが集まってできた政権だと、そう認識した理由を教えてください。
それで、街頭演説、渋谷の駅前の街頭演説で何と言ったかというと、この政権は、民主党政権は、全共闘時代の新左翼崩れが集まってつくっている政権だと思っているんです、民主党は革マルそのものを立候補させている、今ここに列車が走っているけれども、JR東労組は革マルの牙城なんです、その革マルの親分の松崎さんの一の子分が民主党の全国比例で出てくるんです、日教組もいれば、やはり過激派の代表まで民主党の候補に入ってくるというのは
、結局は、一言で言えば、社会主義国家というのは世界でソ連が第一の国で、レーニンのころからこの暴力装置という言葉が使われていたわけでありますが、この言葉の意味というのは、当時の時代的な背景からして、地下活動を行っていた革命分子を当時の公安や警察や軍隊が抑え込むために国家権力としてそれらを行使する、そのことを暴力装置、国の暴力装置と呼んだということだと思いますが、このくだりで、仙谷官房長官は学生時代に全共闘
○国務大臣(仙谷由人君) 日本の自衛隊、政権交代が起こった瞬間に、昔、言わば全共闘運動をした者が政府の要職に就いたから面従腹背でこれからいくんだと、そういう考え方や議論で自衛隊が染まるとは思っていません。その時点時点での政権に政治的には中立に、全く、いわゆる実力組織として外敵に対し、あるいはその他の諸紛争に対し上官の命令の下に一糸乱れず行動をしていただけると確信をいたしております。
全共闘での戦士でいらっしゃるから、何にでも権威には反対したいんでしょうけれども、もう本人が権威を持たれているんですよ。その大臣が街頭演説で、国交大臣の発表に反対、もう情けなくなりました。大臣というのはそんな格の低いものなのかなと。
家に帰るとおやじが機動隊を導入しろと言うものですから、それは無理だ、学生の自治を、大学の自治を守るべきだ、そう言いながら、しかし大学では逆に、全共闘あたりが大いに行動してくることに対しては、むしろそれを守らなきゃならぬじゃないかと、自分たちの研究室には、まだ当時は極めて貴重だったのがコンピューターでありまして、その大きな、しかし今から見ればほとんど何もできないようなコンピューターを後生大事に守ろうというようなことをやっていた
自分は団塊の世代で全共闘世代に属するが、率直に言って私たちの上の世代の人たちは随分むごいことをした、そういう感想を持ちます。裁判官をしていると、訴状を見ただけでこの事案は救済したいと思う事案があります。この事件も、そういう事案です。一人の人間としては、この事件は救済しなければならない事案だと思います。心情的には勝たせたいと思っています。
吉良先生、やはりあの時代、私はその岸内閣の安保騒ぎのときに、ちょうど昭和三十五年、二十の学生ですから、まさに全共闘の前の全学連の時代に巻き込まれて、非常に鮮明な記憶がある時代でもあるんです。
その上で、日本でも、先ほどの話でいきますと、私どもは、ちょうど昭和三十五年、いわゆる六〇年安保のときに大学の学生が私の時代ですから、少なくとも、安保反対で荒れたあの六〇年安保の反対の真っ最中、いわゆる日米同盟による向こうの代表、ハガティという人が羽田に到着したのを追い返したという、当時、全共闘の前の全学連と我々は言った世代に育っているんですが、そういったときに追い返した経緯等々、その当時はすごかったんですよ
受験信仰の中に育ち、全共闘世代でもありましたので大学にまともに通わない、一発試験の恩恵を受けて弁護士となり、三十年を過ごしてまいりました。プロセスを経ていない法曹として、常日ごろ自分自身、何となくいかがわしさを感じつつ弁護士人生を送ってきた者としての反省を踏まえて意見を述べさせていただきます。
先生は、卒業を目前にしていたので余りかかわるつもりはなかったと回想しておられますが、実際には、全共闘防衛隊長として安田講堂に立てこもった末に逮捕され、一年間東京拘置所に拘留されることとなりました。出所後、改めて卒業試験を受け、晴れて念願の医師となられましたが、そのときには既に東京大学入学から十二年の歳月が流れておりました。
それにより日本の社会が崩壊していくこと、実は一九七〇年代以来のいわゆる全共闘、新左翼の理論によるとそれは望ましいことなので、そういうことに少年保護の体系全体が影響されているとしたら、僕はそんなことはないと信じますがと一応申し上げておきますが、ゆゆしいことであると思います。
あの方は、全共闘が全部立てこもっている中に一人で乗り込んで、議論して、初めは罵声が飛び、やじが飛んだのです。ところが、最後は拍手で送り出されたという事実があります。思い出される方が多いかと思いますが、そういうふうな気概を、迫力を持ってやってほしい、逃げないでやってほしいという気持ちが久米、菅沼両氏の中にはあったのだと思います。
その後、東京大学理科Ⅰ類へ進学されましたが、当時、安田講堂事件に象徴されるように、いわゆる全共闘世代による学生運動が全国の学園を席巻しておりましたが、この学生運動を通じマルクス経済学に強く興味を示された君は、みずからが目指していた物理学者への道から経済学部へと転部されたのであります。
こういう場合、例えば登校拒否とか不登校の場合でも、学校に行かない子供の方がまともであって、学校に行っている子供の方が実は管理教育の中に巻き込まれているんだというようなことを、これは児童精神医学者の一部、全共闘出身の人が多いのでありますが、そういう説がありまして、それは非常に問題になっているんです。私の言うことに御異議のあることはわかっていますが、私はそう思います。
○吉田(治)委員 大臣、言われるのはよくわかるのですけれども、それは特殊な、そういうところをもって一点突破、全面展開という全共闘方式的な言われ方をされると、それはちょっと、それはそうだと理解はできるけれども、それはそういう地域での特殊な話であって、じゃ、普通の、民間の中小の零細企業がばたばた倒れていって、そこでたくさんの人が今リストラという名前でやめられている、じゃ、そこへ集中投下で職業安定所の人だけ
また、多分、公安委員長のお年からすると俗に言う全共闘時代というのですか、私は聞いておりませんけれども、ひょっとしたら大学で放水車に水をまかれた人かな、その方が今公安委員長としてまいた方の責任者をやるというのも時代かなという感じがしますので、今度はまかれた方の立場からまく方の立場かもしれませんけれども、その辺を含めて、一線の警察の皆さんの処遇、待遇、そして今るる申し上げてきた人的基盤の充実についての公安委員長
それができた全共闘世代にあこがれた時もあった。ベ平連の反戦運動をうらやんだこともあった。 しかし、現在は信じるに足る思想もない。社会も政府もあまりに変化が速く批判する暇もない。昔もノンポリというものはあったが、ノンポリとはどこかにポリシーがあるから成立するものであって、現在はポリシーそのものがないのだ。 若いエネルギーは行き場がない。この閉塞の結果がオウムの一因にもなった。
それから大学では全共闘問題が出た。そして若いときに、いわゆるパイオニアとかトリオとか、そういうステレオブームがありました。自動車を買って、サニーが大ブームになって、結婚して、持ち家志向が非常に高まりました。先ほどその人たちが一体修理をどうするのかという話がありましたが、そういうライフサイクルというのが今来つつある。特に若いときに持ち家を持った人たちが今の団塊の世代の方々であります。