1986-10-30 第107回国会 参議院 文教委員会 第1号
最終日は、まず重複障害を持つ子供たちのための県立光明養護学校を訪れました。佐々木俊校長から同学校の概要や適正な就学指導、卒業後の進路指導のあり方、教員の現職教育等の学校運営上の問題についての説明を伺った後、校内視察を行いました。子供たちはそれぞれの障害の程度に応じた機能回復訓練や技術習得訓練に励んでいました。
最終日は、まず重複障害を持つ子供たちのための県立光明養護学校を訪れました。佐々木俊校長から同学校の概要や適正な就学指導、卒業後の進路指導のあり方、教員の現職教育等の学校運営上の問題についての説明を伺った後、校内視察を行いました。子供たちはそれぞれの障害の程度に応じた機能回復訓練や技術習得訓練に励んでいました。
先般も光明養護学校の生徒さん、車いすの子供十人とアメリカへ行ってまいりました。そのアメリカへ行って帰ってきて、印象は何だったと聞きましたら、アメリカ人が私たちと視線が合ったときに、目と目が合ったときににっこりほほ笑んでくれた、わらってくれた、背中をたたいてくれた、それがアメリカの印象として子供たちが私に言ったわけであります。
現在ですと、養護学校も数多く設置されておりまして、私程度の障害児でも教育を受ける機会というものが多くなってきたわけですけれども、その当時は養護学校というのは、現在の東京都立光明養護学校が全国にただ一つあるだけでした。で、私は当時東京に住んでおりまして、この養護学校の試験を受け、合格して一月ほど通ったのです。しかしながら、非常に通学に困難でございました。
で、内容は繰り返しませんが、少し荒木君の場合は言語の点で問題があるようですけれども、しかし世田谷の光明養護学校に通って、小学校から高校まで勉強されているわけですね。
この人は私の世田谷のすぐ近くなんですけど、光明養護学校というのがございましてね、そこへわざわざ近くまで御両親が移ってその子供をずっと通わして、そして幸いにして電気のほうに興味を持ってるものですから、テレビの修理やなんかをりっぱにやってるんですね。ところがどうしても自動車がないとお得意さん回りが不便なんですよ。そこで自動車を習ってりっぱにやれるという自信があるわけです。
東京都では本年度より肢体不自由学校四校に二十八名の介助職員を配置しましたが、そのことによって、たとえば光明養護学校では、これまで約三百五十名の児童生徒に三分の一以上の百三十名の父母が付き添い、あるいは送り迎えをしていました。そして父母に大きな負担をかけていましたが、わずかではありますが、この負担が軽くなったと父母は喜んでいます。
やはり文部省自体が重点的なものとして取り上げて、医学的にもあるいは心理的にも、あるいは肢体不自由児ならば、さっき参考人から広川委員の名前が出まして、光明養護学校に半月ほど前に偶然行く機会があったのですが、そこには父兄が自動車で送ってきておる、しかし自家用自動車の置き場所がない、そういうような具体的なものは、やはりいま局長が申されたようないろいろな観点から、国自体がやらなければならないのでありまして、
そこで、これらの一般の児童の問題も非常に重大ではございますが、さらに私は最近、整肢療護園、秩父学園、島田療育園ですか、それから世田谷の光明養護学校、これらを視察いたしまして非常に暗い心をいたしております。過日も全国の精薄愛護協会の大会が開かれまして、そのときにこういう声明を出されております。
それから、いまの国有林の問題は、光明養護学校というのが世田谷にあるのです。これも三十年の歴史を持っておるわけですね。そこの父兄たちが、毎月二百円ずつ出してわが子のために、将来の安住の地を求めたいというので、千葉のほうに三百坪ばかり土地を買ったのです。ところが父兄の——子をかかえていると非常に金がかかるのですよ。
私は過日光明養護学校に参りましたときに、そこの生徒の歌がある。「生前の友の言葉もわれと同じ、母より先に逝くがしあわせ。」「不自由のからだのあこの果てるまで、長らわんと励みます母」と、こういう歌を私は聞きまして、ほんとうに泣いてしまったんです。不自由な子供がお母さんより先に死ぬのがしあわせなんだと。