1975-12-12 第76回国会 衆議院 本会議 第18号
入社後、総理府官邸詰めの記者となり、郷党の先輩風見章氏の知遇を得たこと、その後、陸軍省担当記者として軍部の事情に精通したことが、近衞内閣から平沼、阿部、米内、再び近衞、東條と政権が軍部中心に推移した時代において、塚原君の取材活動を有利にし、彼の政治情報を一層適確性を持たせたのであります。「塚原の情報は適確だ」と社内の評価を高めたのも当然のことであります。
入社後、総理府官邸詰めの記者となり、郷党の先輩風見章氏の知遇を得たこと、その後、陸軍省担当記者として軍部の事情に精通したことが、近衞内閣から平沼、阿部、米内、再び近衞、東條と政権が軍部中心に推移した時代において、塚原君の取材活動を有利にし、彼の政治情報を一層適確性を持たせたのであります。「塚原の情報は適確だ」と社内の評価を高めたのも当然のことであります。
もう一つの形は、わが党の先輩風見章氏であります。風見章氏は、御承知のように在野党の社会党に入党せられました。そうして、日中国交回復を企てまして、日中国交回復国民会議を提唱し、みずからその理事長となって、献身的な努力をいたしました。いま、北京におきまして、国民大使ともいうべき仕事をしておる西園寺君、この人を北京に派遣したのも、風見章氏の画策によるところであります。