2016-10-11 第192回国会 参議院 総務委員会 第1号
○仁比聡平君 全力で頑張ってもらいたいと思うんですけれども、特に中山間地の甚大な被害について伺っておきたいんですが、お手元の二枚目の資料に、御船町の元禄・嘉永井手、これ、井手というのは熊本の言葉で用水路、水路のことなんですけれども、「水送れず 田植え断念」という熊本日日新聞の六月の記事をお届けをしています。
○仁比聡平君 全力で頑張ってもらいたいと思うんですけれども、特に中山間地の甚大な被害について伺っておきたいんですが、お手元の二枚目の資料に、御船町の元禄・嘉永井手、これ、井手というのは熊本の言葉で用水路、水路のことなんですけれども、「水送れず 田植え断念」という熊本日日新聞の六月の記事をお届けをしています。
それから、あと元禄大地震というのもありまして、これもプレート境界型地震だと言われています。 繰り返しますけれども、地面の直下で、プレート境界型地震が直下で起こるところは多分地球上では首都圏ぐらいかもしれませんが、そういう認識でよろしいですか。これは大事なことだと思うんですが、どうでしょうか。
江戸時代になりましてこれが千二百万になり、元禄時代になりますと二千八百万になる。ちょうど第二次世界大戦が終わった一九四五年の日本の人口が七千二百万、それが一億二千万を突破するまで高度成長期で広がってくるわけです。 そうすると、もともと町の真ん中に住んでいた人たちが、次男、三男、長女、次女と生まれますから、そこの中心街にいられませんから、だんだん郊外に広がって住むようになった。
以下に、ざっとですけれども、我が国が災害集中期がいかにひどかったかということを、貞観年間、慶長年間、元禄年間、安政年間というので示してございます。それぞれ大地震や大風災があって、そういうものが集中した時期がございました。
例えば、江戸時代の安政の江戸地震、それから元禄の関東地震などというときも、やはり大正の関東大震災に匹敵するような大きな地震が発生しております。 関東だけではなく、この下の六枚目の絵にございますように、日本列島の西南日本の太平洋沖、南海トラフというところでは、少なくとも七世紀までさかのぼることができて、過去九回の巨大地震の系列が記録されてございます。
つまり、これは元禄型の関東地震、マグニチュード八・二だと水門が全部安全とは言えないと。これ私、去年法案作るときに相当都や区と議論をしました。その上に、都内ではいろいろな学校法人が避難所に指定されておりますが、これは、震度七はおろか六にも耐えないところがたくさんあります。でも、民間ですから、補助はもらったって三分の一あるかないかですから、できない、絶対できないと。
関東大震災と元禄関東大震災でございます。この過去の状況を踏まえますと、やはり八を想定したことでこれからいろいろな対策を練っていかなければならないということで、今その準備を進めているということでございます。
一七〇三年に元禄関東地震というのが起こりました。それから、関東大地震が八十三年前の一九二三年に発生しております。 日本の地震活動の特徴の一つは、巨大地震の前後に内陸部での地震活動が活発になる活動期があります。それから、静穏期もあります。活動期と静穏期が交互に起こるという特徴を持っております。関東大震災からもう八十三年たちました。このクラスの地震は二百年程度の間隔で起きると考えられております。
○中馬国務大臣 歴史をひもときましても、もちろん経済的な大きな繁栄といいましょうか、そのゆとりが前提ではありますけれども、例えば元禄時代、ただ商売に励むだけではなくて、ああして多くの、委員長のお地元の京都なんかでもそうですけれども、だんな衆はただ仕事一辺倒ではなくて、少し決められたことをやれば、後はそれこそまた着かえていろいろな音曲を楽しんだり、詩歌をなべたり、そうしたのがあの元禄文化を構成したわけでもございます
○国務大臣(中川昭一君) 確かに、今から三百年前に、一七〇〇年ですから江戸時代の元禄末期ぐらいのときに決められたことを今我々がこの世の中の中でまあそれに基づいてやるということはなかなか想像しにくいことでございますし、また、三百年先について今から認めるのもまず感覚的にいかがなものかという藤原委員の御指摘は、私もそのとおりでございます。
そういうのを見ておりますと、日本も大変な津波被害があって、私もいつも回っている千葉県でも元禄地震というのがありまして、一七〇三年に、房総半島の突端に野島というところがありますが、それが五メーターぐらい隆起したマグニチュード八・二という、今、野島崎と地続きになっておるのでございますけれども、その地震に伴って津波が起きまして、福島県から紀伊半島まで行ったと。
だから、二十世紀に入って初めて判例で一六八八年の権利章典が使われなくなったとかというぐらい、昔の日本でいえば元禄時代の法律を使っているような国ですから。
小泉純一郎首相は十六日、東京銀座の歌舞伎座で、「元禄忠臣蔵」の中で最も人気があるとされる「御浜御殿綱豊卿」などを鑑賞、夏休みを満喫した。クライマックスのシーンでは涙をこぼしながら盛んに拍手。観劇後も記者団に、良かっただろうと、ほおを紅潮させ、興奮冷めやらない様子だったと。 私は、映画を見ても歌舞伎を楽しんでも結構でしょう。
そうじゃなくて、むしろ、もっと、元禄ぐらいから、どこかからできたものを、日本人のその当時の慣習としてあったものを憲法体制でつくったんじゃないか。 だから、例えば先ほどの仙谷委員の言われたような官僚制の割拠性の問題だって、多分、幾ら井上毅が天才だったって、あるときその制度をつくったらそこから先百二十年にわたって日本国民を支配しますというわけにはいかないと思うんです。
○堺屋参考人 私は、さまざまな形態、例えば鎌倉時代のように、鎌倉と京都に両方ある、政治、行政からいうと鎌倉だったんでしょうけれども、そういうような形態、あるいは江戸時代の前半期、元禄までは確かに大阪、京都も大きな都市でありましたが、後半になると江戸一極集中がかなり進みます。そういうような事実認識の問題がございます。
しかし、私は、遠く徳川・元禄時代の経済運営を牛耳った荻原重秀という人の言葉を連想します。すなわち、それは「瓦礫も官府の印を刻めば、これ通貨なり」。つまり、かわらのかけらや小石でも、徳川幕府の判こを押せば通貨だという発想です。物的な担保がなくても、政府の信用のもとに自由に通貨を発行できるという危険な発想につながります。
冒頭申し上げた、平成元禄小泉芝居、談合政治の極致であります。郵政公社化に関する政府原案にこうした修正が行われた以上、修正部分を含む政府案には反対せざるを得ません。 以上、四法案に反対の理由を申し上げますとともに、我が自由党は、我が国の市場経済を健全に発展させる一方、住民の利便の維持、増進を図るための郵政事業改革を積極的に推進してまいることを申し上げて、私の討論を終わります。(拍手)
次の七ページは、そのシリーズを地図の上に示したものでございまして、元禄の関東地震、一七〇三年から現在までにプレート境界で起きました地震のありさまを示したものでございます。 その次に、東海地震の発生の仕組みでございますが、東海地震というものは、海のプレートが沈み込んでまいりまして、上盤側の東海の陸のプレートの先端部を引きずり込んでいきます。
平城天皇陵は、元禄の時代にはヒシアゲ山に一度治定をされたわけでございますけれども、この陵が二重堀を持っておりました関係で、幕末になりまして、今度は寛政でございますが、寛政年間に、蒲生君平が年代に合わないという指摘をいたしまして、それを受けまして、安政の陵改めの段階で、ネジ山、現在の平城天皇陵を考定をし、幕末の修陵の際に、修陵というのは陵を修復する際に、現在地を平城天皇陵として正式に治定をしたわけでございます
江戸時代になりまして、元禄年間に、中世末までの天皇陵で所在が明らかであったものは、二十四方の二十四陵でございました。そのほかは所在が不明でございました。徳川幕府が、元禄時代から、御指摘ございました日本書紀とか古事記とか続日本紀とか、そういう史料と現地の伝承をもとにしまして天皇陵の探索をしまして、多くの陵を決定、整備して、朝廷に報告いたしました。
福田さんは昭和元禄とかいろいろ造語の名人でございまして、小泉さんのキャッチフレーズは余りオリジナルはないんですが、連発をされております。聖域なき構造改革、構造改革なくして景気回復なしとか解党的出直しとか、キャッチフレーズの使い方が非常にうまい。私は本当に、そういう点で小泉さんを見習いたいと思っております。
吉宗は財政再建をやっていったけれども、必ずしもいい政治だとは思わない、むしろそんなことをしないで、あの元禄はよかったじゃないか、自分が今住むなら元禄時代のあそこで住みたい、こう言いましたよね。何を言っていると思いますか。あれは、本人も言っていたとおり、正直な人ですね、総裁選でついこの間まで全く正反対の立場で戦っていた、積極財政論者ですよ。