1998-04-02 第142回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号
ところが、やりたいことをたくさんの生徒がやったらどうにもならないという、いわば放らつ性というんでしょうか、そういうものに誤解され、あるいは平等というものは、生まれながらにして人間は平等に扱われるということが、個性差も能力差もあらゆる面で平等である、運動会で一等賞は要らないんだというような極端な平等主義といいますか、そういうものが限界に、限界といいますか、破綻をしたのではないかということであります。
ところが、やりたいことをたくさんの生徒がやったらどうにもならないという、いわば放らつ性というんでしょうか、そういうものに誤解され、あるいは平等というものは、生まれながらにして人間は平等に扱われるということが、個性差も能力差もあらゆる面で平等である、運動会で一等賞は要らないんだというような極端な平等主義といいますか、そういうものが限界に、限界といいますか、破綻をしたのではないかということであります。
地方分権推進委員会の中間報告の中におきましても、結果として地方公共団体間で施策等に差が生じることになっても、それは尊厳なる個性差と認識すべきとの考え方、すなわち地域の個性と多様性のあらわれととらえるべきものという考え方が示されているところでございます。
発達が急速でありますだけに、それだけ不安、動揺が大きいわけでございますし、いわゆる能力差、個性差というものも顕在化してくる時代でございます。中学校の中心はやはり教科の教育であると考えますけれども、清輝君のように自分の生き方そのものに不安や悩みを持っている子供にとっては、教科以前の重要な問題があるわけでございます。
大変結構な御意見でございますが、今日、教師集団が創造的に技能あるいは知識の向上を目指して、しかも一人一人の個性差に応じた教育を発展させていくためには、教師集団自身の集団としてのお互いの学習、向上、こういうようなものが大変必要だ、かように私は考えておるわけなんです。