1975-04-24 第75回国会 衆議院 社会労働委員会 第15号
私たちの会から、田村俊子賞を授賞された「われなお生きてあり」の作者である、もう去年の四月二日ですか亡くなられました福田須磨子さんや、あるいは原爆で被爆して三十年間、さっきも申しましたように自分の足で歩くことができない、寝たきりの生活を送っている「長崎に生きる」ということを書かれました渡辺千恵子さん、そしていま長崎の被爆者運動の幹部の中にいらっしゃる方たち、たくさんの中で組織しているものであって、私たちもいまではもう
私たちの会から、田村俊子賞を授賞された「われなお生きてあり」の作者である、もう去年の四月二日ですか亡くなられました福田須磨子さんや、あるいは原爆で被爆して三十年間、さっきも申しましたように自分の足で歩くことができない、寝たきりの生活を送っている「長崎に生きる」ということを書かれました渡辺千恵子さん、そしていま長崎の被爆者運動の幹部の中にいらっしゃる方たち、たくさんの中で組織しているものであって、私たちもいまではもう
それからサンケイ新聞の記者の奥さんで鈴木俊子さんという人が「誰も書かなかったソ連」という自分の体験談のようなものを書かれておる。これはベストセラーになったとかという話でありますけれども、これもソ連の国民の裏のほうの生活がよくわかるというような意味で紹介をする。一貫して反共主義を吹聴するという趣旨の講義なんですね。
松浦周太郎君 安宅 常彦君 小林 進君 西宮 弘君 原 茂君 細谷 治嘉君 安井 吉典君 林 孝矩君 谷口善太郎君 出席公述人 立教大学経済学 部助教授 和田 八束君 京都橘女子大学 文学部助教授 高屋 定國君 主 婦 鈴木 俊子君
すなわち、三月十日午前十時より意見を聴取する公述人の方は、東京大学教養学部教授嘉治元郎君、評論家小山内宏君、午後三時より意見を聴取する公述人の方は、全国銀行協会連合会会長小山五郎君、日本生活協同組合連合会会長中林貞男君、また三月十一日午前十時より意見を聴取する公述人の方は、立教大学経済学部助教授和田八束君、京都橘女子大学文学部助教授高屋定國君、午後一時三十分より意見を聴取する公述人の方は、主婦鈴木俊子君
それから婦人関係諸問題に関する懇談会の委員の名前ですが、名前だけ読み上げますと、木下正一、後藤俊子、塩月彌栄子、田辺繁子、武田喜代子、谷野せつ、中根千枝、波多野勤子、樋口弘其、平林たい子、福武直、古谷綱武、松山千恵子、横田整三。
そばにいた人が、何でもすぐ感激して、教育長なんかに電報打ったってって言うのですが、教育長だって何だって、いいことなら打たなければならないといって笑ったのですけれども、一つのそういう意図が、女の先生が足りないからだといってふやしたという意図であっても、ふやしたならば質をよくしていくことが、今度あとから続く者の任務なんだから、ですからそういう意味で考えてみますと、これは千葉県の女の先生の木村俊子さんという
で、十一月の二十九日の日に縄文祭りというのをやりまして、住民こぞってこれを保存したいと、そういう方々の集まりになったわけなんですが、ちょうどそこには画家の方々がお住まいになっておって、その準備会の代表の岩崎巴人さんという方とか、あるいは原爆の画家で丸木位里、俊子夫妻とか、陶芸家の宮ノ原謙さんとか、そういう方、お医者さんであるとか、画家の方とか、学校の先生とか、ほんとうにそこに住まっている人たちで何とか
松平守弘という人と知り合いになりましたのは、そのお母さんの松平俊子という人を通じてであります。私の一番上の実の姉が現在中野区の会議員をいたしております。鷺ノ宮の婦人会長をいたしております。この姉がこの前の区会議員の選挙の折に立候補いたしました。その折、私は、私の友人である愛知揆一君と石田博英君と三人で応援演説に参りました。ところが、その折に松平俊子という婦人がやはり姉の応援に来ておりました。
足利工業株式会社関係者田中平吉、高橋正吉、高橋政雄、羽鳥元章、大谷明、大石幸二郎、椎名茂、磯村俊子、大野竹子、柿沼テル子、原田芳次郎。特調側滝野好曉、上村佐、大曾根朝重、吉田治作、高橋教一、横田広吉、木崎実、倉俣大舖、大体今この手許でわかるのは以上であります。
○田邊説明員 昭和二十一年の九月か、或いは十月かと思うのでありますが、ある人の紹介で私のところに、松平頼壽さんの妹さんかお姉さんか知りませんが、松平俊子さんという方がお出でになつて、これは外のことでお出でになつたのでありますが、その時に閉鎖機関になつておる旧公益営團にこういう品物がある、それが社会事業の面に放出されるやも分らない、こういつたお話がございました。