1977-06-09 第80回国会 衆議院 地方行政委員会 第25号
昭和五年十一月、ロンドン条約に憤慨して浜口雄幸首相を東京駅頭で銃撃し、もって昭和維新の大道を切り開いた同会議元議長、故佐郷屋嘉昭氏、当時二十三歳の行動を賛美して、右翼陣営内部の今日の低迷を払いのけるには、佐郷屋のような青年が必要であることを強調しております。そして、同会議が今後積極的な攻勢に打って出ようとする意気込みを傘下各団体に徹底させたと右翼系の新聞報道でも述べております。
昭和五年十一月、ロンドン条約に憤慨して浜口雄幸首相を東京駅頭で銃撃し、もって昭和維新の大道を切り開いた同会議元議長、故佐郷屋嘉昭氏、当時二十三歳の行動を賛美して、右翼陣営内部の今日の低迷を払いのけるには、佐郷屋のような青年が必要であることを強調しております。そして、同会議が今後積極的な攻勢に打って出ようとする意気込みを傘下各団体に徹底させたと右翼系の新聞報道でも述べております。
たとえば、津久井竜雄は、「右翼の特色も迫力も、そのテロリズムに存することは明らかで、テロリズムのない右翼というがごときは、牙のない猪というにひとしい」と言い、それから、荒原朴水というのが言うには、「われわれは時が必要と考えれば、野坂、宮本らを必ず殺す」、佐郷屋嘉昭が、「われわれは暗殺刺客だ。十人十殺、五十人五十殺をやろうというわけだ。十人が十人をテロる。
こういうことならば、これは、なくなりました右翼の中心人物の一人佐郷屋さんを中心とする恐喝事件が起こっておりますが、これも実は、警察庁なりあるいは法務省なりから資料もいただき、この席でやりとりをいたしましたが、私のほうで申し上げたとおりの結果が出てきている。これじゃ恐喝事件ぐらい起こりかねない。だから私は早急にこれは、こんな安い金で入れるなら、世の中の中小零細企業を山ほど入れてやったらいい。
ところで佐郷屋さんその他に恐喝されたという。 谷島氏が取引先の岡三証券本店に預託中の株券を売却し、四十七年三月十日第一勧業銀行兜町支店長振出の小切手八枚各一千万円で岡三証券から受取り、その小切手を千代田区永田町二丁目十四番三号赤坂東急ホテル内で、片岡哲哉に交付した。
まず恐喝事件でございますが、これは片岡、森川、佐郷屋の三名が共謀いたしまして、東急建設の谷島をおどかしまして八千万円の恐喝をしたという事件がございます。これにつきましては、片岡、森川、両名を起訴いたしました。佐郷屋につきましては、四十七年四月一日に死亡しておりますので、被疑者死亡で不起訴にしております。
五千万円のほうは、一千万円の小切手五枚を、片岡なる人物ともう一人の森川という人と持っていって、佐郷屋嘉昭さんに見せて、あした現金にいたしますと言って帰ってきて、現金を持っていって、その席上で二千五百万円佐郷屋さんのところに置いていって、片岡さんが千五百万円、森川さんが一千万円現金をもらって帰っている。こういう経過ですよ。調べてみて明確なのです。
○山口(廣)政府委員 そのことにつきましては、私どもは一応情報を入手しておりまして、御承知の全愛会議と称する佐郷屋嘉昭氏が中心になってやっております。あの系統の団体が集まりまして追悼会をやる、そういうふうに情報を入手しております。
ところが、これに対しまして、行動右翼約四百八十団体で組織いたしております全国愛国者団体会議議長佐郷屋嘉昭が、二十二日午前十時から名古屋熱田神宮文化殿で第八回全国大会を開き、集まる者二百五十名、そこで皇国憲法の制定、核武装による再軍備、徴兵制度の確立、反共を叫びまして気勢を上げ、おりから開催中の中国展に反対し、市中パレードをすることになりました。
護国団、これは団長が石井一昌、日本同盟、これは代表は佐郷屋嘉昭、関西護国団、代表が足立悟、治安確立同志会、会長は高津大太郎、日本青年連盟、会長は豊田一夫、大日本愛国党、総裁が赤尾敏、全アジア反共青年連盟、代表は中堂利夫、憂国同志会、会長は野村秋介、大日本愛国青年連盟、これは会長は石本隆夫、このほか最近構成員が検挙されました国民同志会、総裁が吉田益三、この団体を加えまして、十団体となるわけでございます
これはたしか団員が七、八十名であったと思いますが、これが護国団の名称をそのまま継いでおったのでありますが、いろんな内部的なあつれき、内部的な感情問題その他から、昨年の一月、小崎金蔵それから佐郷屋嘉昭という人を盟主とする大日本護国団というものに二つに分かれて、これがたしか五、六百人の勢力であると存じます。
佐郷屋嘉昭氏の指導しておるほうが分裂をしたわけありますが、その後このほうの団体に下部団体がだいぶ移っておるようでありますが、その系統の団体が今回事件を起こした尼崎支部の団体でございます。この尼崎支部には包国という支部長がおりますが、その下に先ほどお話しの出口が書記長をしておるということで、尼崎支部には十五、六名の団員がございます。
のほうでは五つの右翼の団体を危険な団体として指定されており、それぞれ調査をされておるようですが、これもまた一部新聞の報道でありますが、全国愛国者団体という全国に約四十八の団体を網羅する、街頭に激しい行動をする団体、最近何か危険団体として指定されたようなうわさも聞いておりますが、先ほど五つの危険な団体をあげられましたが、全国に四十八も団体を持つというような、しかもかつては浜口首相をピストルで狙撃した佐郷屋氏
現在右翼団体の総元締をやっております日本愛国者協議会とかいう団体の議長をやっておる佐郷屋嘉昭、彼は浜口さんを狙撃した。もちろん死に至らなかったけれども、それが原因となって翌年なくなられた。これも現在もう出獄して盛んに活動しておる。その他血盟団事件の井上日召、これも四年で出獄しておる。小沼正、その他橘孝三郎、みんな恩赦で出獄してしまった。
また浜口首相を暗殺した佐郷屋に対しまして、確定した死刑判決があるにかかわらず、数次の恩赦によって現在釈放されている。しかも現在におきましては、恐喝、それから暴力行為等処罰法違反などを繰り返しておるというふうな事実は起こらなかったであろうと思っているわけであります。
それに反して、たとえば浜口首相暗殺事件の佐郷屋留雄に対しては、これは死刑が確定いたしましたが、数次にわたる恩赦でもって、結局比較的短期に釈放になったのでありまして、これなどはむしろ裁判よりは恩赦の運用について問題があるように思うのであります。その程度でごかんべん願いたいと思います。
お調べによりましても、十一月二十八日に愛国党員の岡田尚平以下八名、十一月三十日には精忠国民隊宮尾某、十二月二十三日には日本政治革新同盟員及び皇道塾飯島弘行以下八名、十二月十五日には大日本葉隠機関古賀二郎、一月二十八日には全日本愛国者団体会議代表佐郷屋某以下十一名、一月三十日には大日本愛国党及び防共挺身隊員ら二十五名が本件に関して抗議を申し込んでいるわけです。
○国務大臣(小島徹三君) ただいま亀田委員の御質問の点は、かつて私は、佐郷屋が浜口さんでしたか暗殺いたしました問題が起きたときに、その周囲におる連中が、もうほとんど私たちの常識から見れば、教唆扇動と思われるという姿で佐郷屋という者がそういう凶行に及んだということで、私たち十分教唆扇動だと考えておったのでありまするけれども、いろいろ取り調べた結果、その当時の判断といたしまして、ついに教唆扇動ではなかった
○猪俣委員 これは小さい問題でありますが、井上日召がやめて佐郷屋がなってから、護国団の方針というものが、彼らの文書等を点検すると、百八十度変換した、非常に左翼的になってきました。そこで、あなたが今運動方針が違っているというのは、そういうことじゃないですか。私は井上日召がやめたのは、護国団の性格が変るための脱皮作用と考えているが、公安調査庁はどういうふうに考えられるか。
井上日召が団長を辞任いたしまして、佐郷屋新団長になったのは、これは、当時の護国団の組織方針あるいは運動方針というものと井上日召氏の考え方が必ずしも一致いたしませんで、老人の井上日召が引退して、新しい佐郷屋が護国団を率いて再出発したというだけのことと考えております。
これが、井上日召がやめて佐郷屋という人物が団長になった。それはどういう理由に基くか。その佐郷屋も今度は辞任して、護国団は解散するようになったというが、その原因はどこにあるか、それを御説明いただきたいと思う。
過去の例を見ましても、浜口内閣の際でございますが、浜口首相は佐郷屋某に阻撃をされまして、腹部に重傷を負つた。そうして入院をされ、長い開議会に顔を出さなかつたのであります。議会におきまして、これが問題になつた。
昭和五年十一月佐郷屋留雄が濱口首相を刺して以来、毎年政治的な右翼のテロが続いているのであつて、その間に日本が満州事変に入り、日支事変が始まるというようなぐあいになつているのでありますが、従つてこの昭和五年のいろいろな社会情勢というものや右翼の動きをいろいろ検討いたしますことは、今日の情勢を見る上において非常に参考になるのではないかといふうに考えているのであります。
○片岡文重君 いやですからその場合に佐郷屋青年は不幸にして兇刃を振うに至つたからそういうことになつたのだが、今日の場合今の青年諸君は極めて理智的であるから、そういう非民主的なこと、暴力的なことは、たとえ激越な口調を以て扇動されても容易に動かないのでありましよう。
○政府委員(吉河光貞君) 佐郷屋氏の濱口雄幸総理暗殺の事件でありますが、これはもう教唆がどういう言動を以つてなされたか、ここで材料がございませんので、私御答弁いたしかねる次第であります。やはり裁判所が認定する以上は、新たに犯罪実行の決意を生じさせるに足る行為をなくしたものに違いないと考えておるわけであります。
たしか佐郷屋留雄という青年であつたと思うのですが、あの佐郷屋青年が時の宰相濱口さんを刺された。そのときにたしか山手線の大塚駅の運転係か助役さんであつたろうと思うのですが、このかたが起訴されたか不起訴になつたかは確かに記憶しておりませんが、たしか教唆罪というものに引つかかりました。