2013-04-10 第183回国会 衆議院 予算委員会 第22号
そして、同じ教科書で、南京陥落の前後、日本軍は市内外で略奪、暴行を繰り返した上、多数の中国人一般住民、婦女子を含む、捕虜を殺害した、南京事件。 この真ん中の写真をごらんになってください。日本軍が一九三七年十二月十三日、南京に入ったときの写真です。これは当時のアサヒグラフ。この資料は初めて今回出てきたんじゃないかなと思いますけれども、この当日、このときに、この地で大虐殺が行われていたという。
そして、同じ教科書で、南京陥落の前後、日本軍は市内外で略奪、暴行を繰り返した上、多数の中国人一般住民、婦女子を含む、捕虜を殺害した、南京事件。 この真ん中の写真をごらんになってください。日本軍が一九三七年十二月十三日、南京に入ったときの写真です。これは当時のアサヒグラフ。この資料は初めて今回出てきたんじゃないかなと思いますけれども、この当日、このときに、この地で大虐殺が行われていたという。
このことは、当時、同盟通信社の特派員であった故・前田雄二氏も『世界と日本』昭和五十九年四月号で「所謂南京大虐殺というのは、二〜三十万人という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだ。ところが、殺されねばならない住民婦女子は全部”難民区”の中にあって日本軍の警備司令部によって保護されていた。