2021-04-07 第204回国会 衆議院 文部科学委員会 第9号
それで、九八年に伊能忠敬記念館というのができまして、そのときの担当部長が、いや、これはもう、町並みもこうで、いいタイミングなので、一気に今、佐原の大祭を国の指定に持っていくのを頑張りますと言ってくれたんだけれども、正式に文化庁の方へ行ったら、千葉県がそこまで言うなら、じゃ、千葉県内でどれだけお祭りがあって、その佐原の大祭の位置づけはどういう格付なんだ、千葉県としてどのような見解を持っているんだ、そう
それで、九八年に伊能忠敬記念館というのができまして、そのときの担当部長が、いや、これはもう、町並みもこうで、いいタイミングなので、一気に今、佐原の大祭を国の指定に持っていくのを頑張りますと言ってくれたんだけれども、正式に文化庁の方へ行ったら、千葉県がそこまで言うなら、じゃ、千葉県内でどれだけお祭りがあって、その佐原の大祭の位置づけはどういう格付なんだ、千葉県としてどのような見解を持っているんだ、そう
そこで、少し大きなスパンで見ますと、一九五九年の国会答弁で、当時の伊能防衛庁長官は、「仮定の事態を想定して、その危険があるからといって平生から他国を攻撃するような、攻撃的な脅威を与えるような兵器を持っているということは、憲法の趣旨とするところではない。」と明確に答えております。
敵基地攻撃は憲法上認められると言うけれども、先ほど来、私も少し述べましたけれども、一九五九年三月十九日の衆議院内閣委員会で、当時の五九年全体の議論ですよね、その中にもありますが、当時の伊能防衛庁長官は、「仮定の事態を想定して、その危険があるからといって平生から他国を攻撃するような、攻撃的な脅威を与えるような兵器を持っているということは、憲法の趣旨とするところではない。」と。
一九五九年の当時の伊能防衛庁長官の説明であります。 敵基地攻撃能力の保有を検討するといいますけれども、現行憲法下で、なぜそのような検討を行うことが許されるのですか、大臣。
大臣は伊能忠敬のお話をされましたけれども、私も、少年時代、青年時代、千葉県に住んでおりましたもので、大変懐かしく、興味深くお話を伺わせていただきました。 法務行政は日本という国のあり方にかかわる大変重要な行政でありますから、大臣が言われたように、子や孫の時代の日本というものを見据えながら、今やるべきことを着実にやっていくことが特に重要だというふうに考えております。
しかし、先日、大臣所信を伺っておりましたら、森大臣が伊能忠敬さんのお話をされていらっしゃいました。郷土の偉人伊能忠敬は云々、四万キロ歩いて日本全図の完成という驚くべき事業をなし遂げました、こういう御発言でございました。私も大変な偉業だと思います。つたない知識ではございますが、それは理解をしております。
これは二十五年前からこつこつと海上保安庁がこれをスタートさせて努力をし続けて、二十五年間ほとんど、間宮林蔵かあるいは伊能忠敬の世界になっちゃうのかどうか知りませんが、海底を全部調べて、それで国連に提出をされているというふうに聞いておりますので、こういう努力を続けられている海上保安庁に敬意を表すと同時に、最後に海洋政策担当大臣としての海を守る決意を伺いたいと思っております。
例えば、中学校の心のノートの中には伊能忠敬ぐらいしか出ていないんですかね、やり直すには遅いものはないという。残りはほとんど出ていないような現状なわけですよ。 だからこそ、心のノートに歴史的な偉人とか、そういった大切にしてきた道徳心とかをきっちりと書き込む。それはいかがお感じになっているか。もう時間ですので、是非、最後に大臣、お聞かせ願いたいと思います。
私の郷土の偉人伊能忠敬は、知命を超えてなお、人間は夢を持ち、前へ歩き続ける限り余生は要らないと四万キロメートルを歩き続け、日本全図の完成という驚くべき事業を成し遂げました。そして今、我々は、より良い国づくりを目指し、司法制度改革を始めとする改革の道を歩き続けています。改革に当たり重要なこと、それは、未来を見通し、さかのぼって今何をなすべきかを決断していくことであります。
私の郷土の偉人伊能忠敬は、知命を超えてなお「人間は夢を持ち、前へ歩き続ける限り余生はいらない」と四万キロメートルを歩き続け、日本全図の完成という驚くべき事業をなし遂げました。そして今、我々は、よりよい国づくりを目指し、司法制度改革を初めとする改革の道を歩き続けています。改革に当たり重要なこと、それは、未来を見通し、さかのぼって今何をなすべきかを決断していくことであります。
それから、伊能忠敬、これは商人の家に養子に行って、傾きかけた家業を立て直して、それで自分は天文学をやりたい、自分より若い先生に江戸へ出て習って、そして幕末に外国人が来て仰天したようにすばらしい日本地図を作ったということですから、例えば老いといっても、むしろ老いが本当の人生ですよという生き方が江戸時代にはあったと、こういうことも一つ参考になろうかと思います。
○国務大臣(麻生太郎君) 元々は、千島、樺太等々、伊能忠敬、江戸時代に出てくる学者ですけれども、伊能忠敬にさかのぼって、少なくとも長い長い歴史の中で、あそこは半島ではなくて島であるとかいろいろなことをずっと調べ上げていった長い経緯があります。もう御存じのとおりです。
○土肥委員 シーボルトが持ち出したのは、これはやはり日本の機密情報、地図情報を持ち出したわけでございまして、それはとがめられるところがあるわけでございますけれども、江戸幕府が伊能忠敬に計測をさせて、それは立派な日本地図が初めてでき上がるわけですから大変結構なことですけれども、何か軍事情報と関係があるのかなということを懸念しただけでございます。
ただ、測量ということをいえば、伊能忠敬、今大臣もおっしゃいましたけれども、並外れた人物が江戸末期に登場しまして、一八〇〇年、五十歳になって、まず蝦夷地に行く、北海道に行く。そうなると、私は、北方領土は行ったのかなとか、そんな感想も持ったり、すごい人だ、こう思うわけでございます。
○藤本政府参考人 ちょっと補足をさせてもらいたいと思いますが、地図とそういう国防とのかかわりみたいな話、伊能図も、先生御承知かどうかあれですけれども、シーボルトが伊能図を海外に持ち出したというので、結局、その持ち出した張本人、伊能忠敬の恩師の息子さんが獄死をしているとか、何人もつながれたとかいうこともございますし、明治に入っても、地図が機密漏えいをしたということで、いろいろな事件が起こったりしております
先ほど先生、伊能忠敬のお話ございました。江戸時代の伊能忠敬というのは御承知のとおり非常に精密な地図を作ったわけでございますけれども、全国を網羅的にある一定の水準の地図を作ったという意味では伊能忠敬が一番最初と、日本では最初ということのようでございます。
先ほど伊能図の話が出ましたけれども、西南の役で政府軍が意外に苦戦をしたんですね。
それから、伊能忠敬さんの地図を私、実は海上保安庁にすばらしい地図が残っていたんです。ちょっと、一か月ぐらい前の新聞にもそれ出ていましたですけどね。私はもう早速行って現物見ましたけれども、やはり自分が歩いたところには全部赤い線を入れておりまして、そしてところどころで立ち止まって、北斗七星との関係で天文学的にその位置をやはり測量した地点をそこへ書き込んであるんですね。
昔の江戸時代の隠居というのは、四十代であろうと二十代であろうと、一財産つくった人間が、もういい、これからは稼ぐ必要はない、一生生きていけるだけの金は稼いだ、だから、たとえ四十であっても隠居して、例えば日本地図をつくった伊能忠敬さんなんというのは、あの人も隠居ですよ。
今までの専守防衛の定義というのは、例えば今言われたような船田さんが、船田防衛庁長官が鳩山さんの代理で、鳩山総理大臣の代読という形で言われたり、あるいはまた昭和三十四年に伊能防衛庁長官の発言があったり、あるいはまた田中首相がこれ、専守防衛とは何かということを述べられているところもあるんですね。
その後も、伊能防衛庁長官が、昭和三十四年の三月十九日、同じく衆議院の内閣委員会でもこれを述べておられますね。それで、その中で言われておりますのは、そのような事態は、その時点の今日は、現実の問題としては起こりがたい、仮定の事態を想定して、他国を攻撃するような、攻撃的な脅威を与える兵器を持つことは、憲法の趣旨とするところではない、こういうことも答弁されておるわけですね。
これは、御承知のとおり昭和三十一年二月二十九日、鳩山一郎総理がはっきりと答えられておることでございますし、また、三十四年の三月十九日、伊能防衛庁長官が同じく、同じような表現で、敵基地をたたく、これは自衛の範囲内である、このことを言明しておられますが、これは今なお防衛庁のハンドブック等には載せられておりますから、これは政府として現在もその見解に変わりないということをお認めになられますか、お伺いいたします
○近江分科員 伊能忠敬さんという人が、高齢になってから日本国土全部を測量された。長期間かかったわけでございますが、この毛利さん、地球の七割以上の正確なデータを収集された、まさに現代における伊能忠敬さんではないか、このように思うわけでございます。 考えてみれば、毛利さんも、最初の搭乗が九二年ですね。そして、九六年にさらに搭乗技術者を目指して挑戦をされた。
○野呂田国務大臣 御指摘の昭和三十四年三月十九日の衆議院の内閣委員会における伊能防衛庁長官の答弁は、自衛権としての敵基地攻撃と、そのために保有できる装備との関係についての質問に対して答弁したものでありまして、現実の誘導弾等による我が国に対する攻撃の可能性に関連しての答弁ではないということは、ひとつお断り申し上げておきたいと思います。
今御答弁をされた部分であれば、自衛権の発動ということであれば、敵基地攻撃、敵基地をたたく能力を持つことも、これは専守防衛の範囲の中である、こういう御答弁をされましたけれども、この昭和三十一年、それから伊能防衛庁長官が答弁されているのは昭和三十四年でありまして、随分前ですね。
○野呂田国務大臣 ちょっと、さっきも触れたところでありますが、伊能長官の答弁は、敵基地攻撃に関する昭和三十一年の政府統一見解に関し、まず、国連の援助もなく、日米安保条約もないというような、他に全く援助、手段がないような場合における憲法上の設例の話であるとしてこの見解を申し述べているわけでありまして、現実の問題としては、他に全然手段がないという仮定の事態を想定して平素から我が国が他国に脅威を与えるような