2019-10-23 第200回国会 衆議院 外務委員会 第2号
外交こそ国益という言葉は、この委員のメンバーで、きょうまだ来ていませんけれども、百四十二代の外務大臣だった玄葉光一郎代議士が二十代のときに、百九代の外務大臣だった伊東正義先生に手紙を送ったときの言葉が、我が県内では広く伝わっているところでもあります。
外交こそ国益という言葉は、この委員のメンバーで、きょうまだ来ていませんけれども、百四十二代の外務大臣だった玄葉光一郎代議士が二十代のときに、百九代の外務大臣だった伊東正義先生に手紙を送ったときの言葉が、我が県内では広く伝わっているところでもあります。
先ほど小川委員も大平先生の話を出されましたけれども、やはり私の地元には、大平さんとまさに夫婦のような関係だった伊東正義先生、まさに宏池会の重鎮でありますけれども、その伊東先生が外務大臣のときに、紅顔まれなる玄葉大臣が二十代後半の県会議員のときに、外交こそ国益という手紙を伊東先生に送って、これは今、ちゃんと会津にも残っています。
今の質問は、実は、私自身、政治家になる前は、地方議員、またその前は秘書をさせていただいていて、岸田大臣の同僚の、また同じ宏池会にいた伊東正義先生の後継の斎藤文昭という代議士、その前は新井将敬代議士のところにいたんですけれども、私の師匠筋に当たる伊東正義さんが、鈴木副大臣のお父様が総理のときに、日米同盟発言をめぐって伊東大臣が辞任をしたという経緯もありましたので、あえて確認をさせていただきました。
そしてまた、玄葉大臣においては私の尊敬する福島県議会の私の先輩でもあり、また、党派は違いますけれども、伊東正義先生の薫陶の中で政治家をさせていただいている同じ根っこの政治家であるというふうに認識をさせていただいております。
福島県ということで、私も、会津が、福島県が生んだ伊東正義先生の流れをくむ国会議員として、それは玄葉大臣も同じであります。また、残念ながら、田中防衛大臣、今、棒読み大臣とも言われてしまいましたけれども、今、名前を出させていただきました伊東先生の座右の銘に誠実という言葉があります。誠実な答弁を期待して質問に移らさせていただきます。 震災から一年がたちました。
しかし、やはり三月十一日以降、私自身も、大臣とは伊東正義先生の流れをくみ、福島県の出身者でもあり、そしてまた同じ県議会の出身、ある意味では党派を超えて、まさに大臣は私の兄貴分みたいな立場でありまして、そういう中で、また福島の現状を考えたときに、また国の政策の中でも原発の在り方、これが変わってきている中において、さりながら、国際的には原発を売っていくということは、素朴に、純粋に考えても、やはりこれは国民
玄葉大臣、玄葉大臣とは公私共に古くから御指導をいただいておるところでありますし、同じ福島県、また県議会の大先輩でもありますし、また、これはもう党派を超えて、会津が生み、そして福島、日本が生み出した偉大なる伊東正義先生の流れをくむ政治家として私も以前から御尊敬を申し上げてきた次第でありますし、大臣が初当選、無所属でされたときに、私は伊東正義先生のもう一人の後継である斎藤文昭先生の秘書として、大臣が自民党本部
詳細については次回に譲りますけれども、我が郷土の伊東正義先生は、中身変えなきゃ表紙変えても駄目だと言いましたが、実は表紙変えれば変わる場合もありますよ。雪印がメグミルクに変わって、内容なんか誰も精査していないのに企業は良くなったと思っているように、表紙変えるだけで変わるかもしれない。それを指摘させていただいて、次回に質問させていただきます。
○小熊慎司君 私の師匠筋の政治家に伊東正義先生がいますけれども、表紙を変えても中身を変えなければ駄目だという名言残しています。
しかし、その後多くの方々がこれに関連されて、こうした問題が社会的な問題になってきたわけでありまして、そこで、我が党の中で当時調査会をたしかつくられて、お亡くなりになった伊東正義先生が委員長になられまして、これらに関した方々を全部それぞれ事情を調べて、そして調査して結論を出されたわけでありますが、私はそのとき、その委員会の中では、その審議の対象ではない、そういう利益を目的に買ったものではないという判断
これは、労働省おいでになっていますか、もう再三質問いたしておりますので経過はわかっておられると思いますけれども、農業者の労災保険の問題でありますが、篤と昭和四十二年に伊東正義先生が質問されて以来、何ら進んでいない。少しずつ条件は緩和されてきておりますけれども、意図されているものにまだなっていない、もう三十年ぐらいたつんですけれども。
ですから、もう三十二年前に伊東正義先生が御質問されて以来まだそれが実現できないというのは、いわゆる農村の生活保障の観点における対応が私は極めておくれている、そう指摘されてもいたし方ないことではなかろうかなと。
当時、労働省の谷課長から御答弁をいただいて、努力いたします旨的な話があったわけでありますが、三十二年前に社会労働委員会で伊東正義先生から、農業も一から四号に入ってくるのではないかという質問がなされております。そのときに石黒さんの答弁では、十分経験と知識を得まして制度が軌道に乗ったときにはそうなるという答弁であります。
私は、伊東正義先生が外務大臣のころからこのことを申し上げて、皆さん何回も約束した。この一事をもってしても、外務省がいかに沖縄の米軍基地問題でこれだけの犠牲と負担を強いておきながら軽く見てきたか、と言うとあれでしょうが、私はわかる気がするんですね。大変でしょうが、日帰りでも行こうと思えば行ける。土曜、日曜だって使える。 この二点について、私はここで外務大臣の決意を聞いておきたい。
昔、自民党時代に伊東正義先生が、正確な名前は忘れましたが、外交機能強化懇談会というのがあって、大臣も大変熱心なメンバーだったと記憶しております。また、総務庁長官におなりになったときに、総務庁は全部見なきゃいけないので外務省だけ無理するわけにもいかぬのでしょうが、その中でも随分努力をしていただいたということをいまだに覚えております。
思い出しますのは、先日もこの席で議論がありましたが、伊東正義先生が、あれは竹下内閣が交代するときでしたか、あなた、総理をやりなさいと言ったら、いや、表紙をかえても中身が変わらにゃ何にもならぬよと言って総理になることを固辞されたことを私は思い出すわけでありますが、まさにこの政治改革は一里塚であって、これからが本番だという感じがするわけであります。
先ほども斎藤文昭さんが、伊東正義先生の後継者として当選をさてきました。また、これに直接全力を尽くした小此木彦三郎先生の後継者として選任をされておるわけであります。 政治改革は、政党政治の原点であります。同時に、選挙制度も、政策中心に行うという意味で、まさにこれまた原点でございます。
○三塚議員 斎藤文昭議員は、私どもの尊敬する伊東正義先生の後継者として議席を得られて、御活躍をいただいておるわけであります。改革の鬼と言われた伊東先生が亡くなって、そしてこれができ上がる。ともに感慨の深いものがございます。 伊東先生の数々の言葉の中に、「表紙だけ変えても中身を変えなければ」という名言がございます。
ただ、一般のあれとしては、つい先ごろ、やっぱりあれだけ御苦労なさった伊東正義先生が他界されたわけでありますけれども、大変長い時間をかけましてこれがようやく一つの、あと区画をつくるというところまでたどり着いたということですね。
いずれにいたしましても、会津では伊東正義先生が私どもの郷土の大先輩でありますが、自民党の政治改革本部長として心血を注いでこの法案の策定に努力してこられましたし、また一時は総理大臣をけってまで政治改革をやらなければならない、こういうことでまさに遺言にも近い形で政界を引退されたわけでありまして、福島県の我々としては、この伊東先生の精神というものも生かしながら、いろいろなことがあっても何とか各党で話し合って
ちょっといきさつを申しますと、実は自由民主党としましては伊東正義先生を本部長に政治改革大綱を平成元年につくられたわけでございます。私はそのころ国会事務局に勤めておりましてお手伝いをしました。私が担当しましたのは政治倫理と国会改革その他でございました。自由民主党としては大変立派な政治改革大綱ができまして、これに伊東先生、後藤田先生は政治生命をかけられたわけでございます。
いずれにいたしましても、伊東正義先生が出た私の地域でありますから、総理を断ってまで政治改革に情熱を燃やした伊東先生の精神を、我々としては、何とかこの政治改革実現という形で生かしたいなというふうに率直に地元としては考えているわけであります。
にまたある面では一つの熟語というようになっていったのは、竹下内閣がリクルート事件で退陣をし、その後継ということで、非常に党内はもちろん党外からも強い声で推された伊東正義氏を本部長に据えた自由民主党政治改革推進本部というものが設置されたころから、政治改革という言葉はたびたび新聞にも登場するようになり、かなり日本人が口にする言葉になり、政治家は特に口にするようになった、こう思うわけでございますが、私は伊東正義先生