2016-11-17 第192回国会 衆議院 憲法審査会 第2号
常に時代の制約のもとで文言が書かれ、そして論議が行われるということは、これは必然のことであろうというふうに思いますし、この憲法が昭和二十一年あるいは二十年という時を背負いながら必死に論議をされたということを踏まえても、日本人論ということでいうならば、一九〇〇年、ちょうど百年前、区切りのときに、例えば、一八九四年に内村鑑三が「代表的日本人」というのを書いた、一八九九年に新渡戸稲造が「武士道」というものを
常に時代の制約のもとで文言が書かれ、そして論議が行われるということは、これは必然のことであろうというふうに思いますし、この憲法が昭和二十一年あるいは二十年という時を背負いながら必死に論議をされたということを踏まえても、日本人論ということでいうならば、一九〇〇年、ちょうど百年前、区切りのときに、例えば、一八九四年に内村鑑三が「代表的日本人」というのを書いた、一八九九年に新渡戸稲造が「武士道」というものを
岡倉天心の「茶の本」、内村鑑三の「代表的日本人」、牧口常三郎の「人生地理学」などは、いずれも一九〇〇年前後の著作であります。今まさに、グローバルな時代における日本の未来を考えるときに、アイデンティティーの問題を、長い歴史的スパンと文化を常に念頭に置き、考えるべきであります。
新渡戸稲造の「武士道」、あるいは岡倉天心の「茶の本」や内村鑑三の「代表的日本人」、あるいは牧口常三郎の「人生地理学」、そうしたものは、やはり文明というものが大きく受容される中で、日本という国はどういう国であったかということを改めて問いかけるという作業が行われたんだというふうに思っております。
それから、内村鑑三先生が「代表的日本人」というところでお書きになっておりますけれども、やはり、今も大臣もお話ありました、子供と向き合って顔と顔、そして魂と魂の触れ合いが大事だと、こうおっしゃっている。
話を戻しますけれども、戻さないのかな、今からちょうど百一年前に新渡戸稲造は、ヨーロッパ人たちから、一体おまえたちの国で宗教教育があるのか、宗教教育もないままにどうして日本国民にモラル、道徳というものが植えつけられるのかという激しい批判を浴びて、彼は御存じのように「武士道」という書物を書き、同じ時期に内村鑑三は、発表されたのは一九〇五年の日露戦争の後でありますが、やはり「代表的日本人」というものを書いて
今からちょうど百年前、一八九九年に新渡戸稲造さんが「武士道」という本を書かれ、それから五年前の一八九四年だと思いますが、内村鑑三さんが「代表的日本人」というのを書いたり、あるいはちょうど百年前に夏目漱石はロンドンにいて、皆そういう百年前のすぐれた人たちが考えていたことは、ヨーロッパ社会というものに日本は文明的におくれている、追いつかなくてはいけないし、受容しなくてはいけない。
その仲間で、郷土会等で勉強している内村鑑三さんが「代表的日本人」というのを書かれる。明治三十二、三年ごろですから、ヨーロッパ文明というものとのまさにせめぎ合いというものの中で、そして日本がそれを受容しながら、そこで日本のアイデンティティーとの葛藤があったと思うのですね。
○小林元君 総理、釈迦に説法をするつもりはございませんけれども、ちょうど百年前に内村鑑三氏が「代表的日本人」という本を書かれました。私も昔読んだので忘れましたが、何かそんなことが書いてあったのかなと思って、実は昨日、国会図書館へ行って、昨晩一夜漬けでございますが読ませていただきました。もう二百三十年ぐらい前の米沢藩の藩主上杉鷹山の話が代表的日本人の一人として書かれてございました。
御承知のとおり、大変なときに財政・政治・行政・教育改革をやって、内村鑑三の「代表的日本人」ですか、日蓮とか西郷隆盛と同じように、五人の中に入って英語で全世界に紹介されたと。そういうことで、私もこの宮崎の地に参りまして、政治改革の公聴会ということで、大変意義あるなというふうな格好で参ったわけでございます。
大正十四年ぐらいに出ました「代表的日本人」という中で、内村鑑三が日本の代表的人物として二宮尊徳を挙げているわけでございます。これは農政の聖人として挙げているわけです。
私も大正末期の生まれでございまして、内村鑑三、昭和五年に亡くなりましたが、「代表的日本人」という中で、五人の日本人、その中に西郷南州、二宮尊徳、中江藤樹、私の山形県の上杉鷹山、そして宗教家の日蓮と、この五人を挙げまして、英文で世界に頒布されて相当な反響を呼んだ本であるわけでございますが、貫かれているのは勤勉、努力、貯蓄、そういう誠実といいますか、そういう一つの生き方で貫かれているような、私なりに若いとき