1993-11-09 第128回国会 参議院 文教委員会 第2号
正常な学級の中に普通児と同様な教育をすることが好ましいのであります」、 こう言って、この哲哉君は結局、目と鼻の先にある付属小学校には拒否されたままでありますけれども、その後また普通小学校も拒否されたけれども、そこは今度は入れてくれたわけです。 そこからスタートしていって、途中で三点歩行から車いすになりましたけれども、長野高校へ進み、そして長野高校を卒業して今は有名私立大学へ車いすで通っている。
正常な学級の中に普通児と同様な教育をすることが好ましいのであります」、 こう言って、この哲哉君は結局、目と鼻の先にある付属小学校には拒否されたままでありますけれども、その後また普通小学校も拒否されたけれども、そこは今度は入れてくれたわけです。 そこからスタートしていって、途中で三点歩行から車いすになりましたけれども、長野高校へ進み、そして長野高校を卒業して今は有名私立大学へ車いすで通っている。
○土井委員 いまるる御説明がございましたけれども、一体今回付属小学校の一年生、四年生に対して、どれだけの募集に対してどれだけの応募があったかということもひとつこの節数字の上で明らかにしておいていただきたいと思います。
○土井委員 そうすると、その付属小学校の場合は四十人学級でまず開始する、周辺の小学校は従来どおりであって、何らそれに対して変更は加えない、こういうふうな姿勢で文部省としてはお臨みになるのですか。
だから、他の付属小学校と同様にとおっしゃるけれども、従来なかったところに付属小学校が忽然として今回できた、そのために混乱が生じているので、他の場合と同様にというようにはいかないのです。特例ですよ。特例中の特例と申し上げているのです。
○政府委員(諸澤正道君) 私どもが調べましたところでは、この四月に地元の小学校から付属小学校の方へ志願した者は、社町で言いますと、社小学校というのが、これが四学級編制の学校のようでございましたが、一年生で本来社小学校に入るべかりし者が二十九名、それから四年生で、これは三年の在学だったと思いますが、それが二十名それぞれ移りましたので、そうなりますと、本来ならば一年、四年ともそれぞれ四学級であったであろうものが
いま局長からお話のありました、たとえば付属幼稚園、あるいは付属小学校の問題にいたしましても、過疎が進みつつあるこの大学の設置場所でありますが、そこに大変な迷惑を深刻に及ぼしてきておる、こういうふうに思いますが、当時の砂田文部大臣が関係者に漏らされた見解というものは、文部大臣室で行われたわけでありまして、文部省の関係者も陪席をしておられたことでありますから、局長もあらましのことは御承知になっておることと
この隣接地となる学芸大学付属小学校跡地には、東京都が芸術文化会館の建設を五十八年完成を目途に予定をいたしております。そこで国鉄の施設を含む未利用地の有効な土地の利用について、昨年もお尋ねをいたしたわけでありますが、何となくあいまいな点が多々あるわけであります。
この春、特殊な例ではありますけれども、某国立大学の付属小学校の児童の募集に、男子が四十一倍、女子が八十一倍、平均して六十倍の入試地獄となったと新聞は報じています。こうした入試地獄が、教育上最も重要な時期にある幼年期の子供たちにどんなに暗い影を落としているのかをあなたは一体御存じなのでしょうか。
地方の小学校の教師が、幼稚園の教師に行ったり、付属小学校の教師に行ったりするわけです。幼稚園へ行った方は、小学校へ勤務したよりも待遇の上で差等がつけられるというこの問題、ちょっと私、いささか不公平のそしりを免れないと思うのでございますが、幼稚園が、例の義務教育等の教員の特別手当というやつ、二分の一になっているのですね。この問題の処理、これでよろしゅうございましょうか。
ところが、戦後アメリカの教育が入ってきて、新教育という言葉が叫ばれるようになったとき、一番先に付属小学校等で新しいわからないような言葉を使って新教育、新教育と言ってまた一番先にこれに傾いていったのも師範学校であった。言いかえれば振り子の振動幅がきわめて大きい。そして、さらに教職員組合についてもいまここで申し上げるのはちょっとあれですけれども、やはり極端に行き過ぎる。
そうなってくると、少なくとも教育系の大学でぴしっとやるということとも関連はしてきますけれども、学芸大学の付属小学校には、有名校扱いで子供がたくさん受けにくる、どう選抜したらいいかということをやっているが、それ以外は実習の協力校がほとんどなくて困っているといったような状態、これは一日も放置できないと思いますね。
それから、この四月に着任しました付属小学校では、きのう始業式をやりまして、明日入学式でございますが、教官構成を見ますと、旧師範学校を出ましたのが大正十三年生まれの副校長と大正十五年の教務主任、あとは二十数人全部学芸大学卒でございますので、かなりそこのところが変わってまいる傾向にございます。
その時分にはむろん青山師範と言ったんですが、その付属小学校の生徒ですね。それで教生といいましたね、いまでも教生というのですかね、学校を卒業をしてこれからもう教師になるというような人が、あれは何週間ですかね、少なくとも私は二週間や三週間ではなかったと思うのですけれども、本当に教師対生徒という関係かできるくらいみっちりと教え、教えられたものですよね。
これは、余り戦前の例を引き合いに出すのは適当でないかもしれませんが、私が戦前の東京の師範学校の付属小学校にいたときの記憶によれば、卒業前の学生が、教生先生といって、小学校で何週間やったのだか覚えておりませんけれども、かなり長く実習をやるのですね。本当にもう先生と生徒という関係ができるくらい、かなりの長い間やったものです。
この隣接地となる学芸大学付属小学校跡地には東京都が芸術文化会館の建設を予定いたしております。 そこで、地元としても、周辺に緑が少なく、防災計画の上からも避難場所としてこの土地は最適であるということから、公園や広場をつくってほしいという強い要望が出ておりますが、こうした強い地元の要望に対して、国鉄当局はこの土地の利用計画をどのように考えているのか、この点について最後にお尋ねしておきたいと思います。
それから、これに新年度からお茶の水大学付属小学校、横浜国立大学付属中学校が加わる。 じゃ、その収容定数は一体何名ですか。
それからまた、先ほど申しました複式学級の研究についても十二の付属小学校で三十二の学級が設けられて研究をいたしておりますし、また海外帰国子女教育の研究も東京学芸大学あるいは京都教育大学、神戸大学の付属学校の海外子女教育学級等において鋭意進められているわけでございますし、また特別の研究としては、先ほど申しました東大の双子の研究であるとか、あるいは千葉大学の例だとか、そういったものが数多くあるわけでございます
○秦豊君 だから申し上げたいことがあるんですけれども、国立大の付属小学校、中学校というと、こういう事務職員の数をお調べになっただけでも歴然としますよ。バーンと差がついているんです。数字が非常に雄弁です、これは。だから、そうした意味でやっぱり設置の目的からかなりかけ離れて、やっぱり受験モデル校になりつつある、成り下がるという言葉は控えますけれどもね、現になっていると言わざるを得ないんですよ。
私は、この岐阜大学の教育学部の付属小学校が、「学校づくり十年の記録」というのをつくって出していらっしゃいます。これを鎌倉の、いわゆる付属学校問題を考えるお母さんたちからいただいてきたのですけれどもね、本当に感動するのですね。生き生きとした教育活動をやっていらっしゃる。そういうようなやっぱり付属学校は日本全国に出るように努力をしていただきたいというふうに心からお願いをしたいというふうに思います。
○粕谷照美君 私は、そういう問題が地元のお母さんたちに大変な疑惑と国立大学の付属小学校あるいは中学校、高校などに対する不信感というものを生み出してきたというふうに思うわけです。
文部省にお伺いいたしますけれども、付属小学校、中学校が一体テストをやって入学をさせるということは、どこからきているのでしょうか。
付属中学校、付属小学校というのはあるのですが、付属高校がないわけです。その付属高校を設置してほしいという要望と、専管二百海里時代を迎えたわけですから、水産学部もあわせて設置してみてはどうであろうかというふうな要望が地元でも相当強く起こっているわけです。
昔をなつかしむわけじゃないけれども、付属小学校というのはその地域の教育の早く言えばメッカであった。そこでたくさんの教員が養成される、その付属の小学校の教育というものは典型的な一つのモデルケースであった。りっぱな意味のモデルケースであった。
最近はその国立学校までエリート教育のモデルをつくるような、そういう試験制度がだんだん進んでいるのではないかというふうな見方もあるわけですが、この受験戦争をなくするために、いろいろの模索が行われておりますが、国みずから、いまのような間違った受験戦争をなくするために、国自身が管理、運営しておる国立の付属小学校、幼稚園等について何らかの新しい方針を打ち出して、そしてそれこそ知育、体育、徳育すべてにわたって
ところが現実には、教駒にしても学芸大付属小学校、中学校、高等学校にいたしましても、全くのエリート集団です。ここへ入るために高い塾の授業料を払い、親の勉強部屋なんというのも塾にあるんですね。子供も習い、親も習って、家へ帰って両方でやりなさい、こういうひどい状態です。それだけのゆとりのあるような方でなければ、教駒にしても学芸大付属にしてもはいれない。
警察文官になってまた警察職員になったというような方、それから教育職員から教育事務に従事する待遇職員になってまた教育職員になったような方、これも同じようなものでございますので、四十七年の法律改正によって改正をいたしましたし、それから四十八年、四十九年の改正によって、右側の(3)と(4)に書いてございますような、戦後の学制改革によりまして旧制中学から新制中学の先生になった方の勤続加給、あるいは師範学校の付属小学校