2021-06-04 第204回国会 衆議院 厚生労働委員会 第25号
実は私も、今年の一月に母が他界をいたしまして、コロナ感染ではなかったので火葬場で母の骨を拾ったわけですけれども、最後のお別れというか、遺族にとってはとても大切な、家族を見送る重要な一つの過程であるというふうに思うんですよね。
実は私も、今年の一月に母が他界をいたしまして、コロナ感染ではなかったので火葬場で母の骨を拾ったわけですけれども、最後のお別れというか、遺族にとってはとても大切な、家族を見送る重要な一つの過程であるというふうに思うんですよね。
私の夫は十三年前に他界したんですが、その前に入退院を繰り返しました。最初のとき、私が付き添っていきましたが、御家族の方はと夫に聞き、妻ですがと言うと、はあという感じでした。
病に倒れて他界した父に代わって一家の生活を支えるため無理してお店を開いた家族経営の飲食店は、売上げゼロの令和二年五月は、書類上、父親が代表者で事業承継していないとの理屈で、死亡による事業承継特例は使えないと、助けを求めたのに一刀両断で切り捨てられた。何たる不条理でありましょう。 デジタルとは、アナログとの対比で定義すれば、ゼロか一かの世界であります。
過日、この舞鶴市高台の一角に、異郷の地で抑留中に他界した人々や敗戦のとき朔北の海辺で犠牲者となられた方々の霊を慰めるべく、シベリア帰還者の団体である朔北会の有志が発起人となって望郷慰霊の碑が建立された。誠に感激である。 抑留により戦争の悲惨さ、無念さ、無益さを嫌というほど味わわされた。半面、自らの体験で、ソ連共産主義の有名無実のスローガンを知り、恐ろしい魔手と陰謀と罪悪の数々を目撃した。
三ページ目は、高齢者になる配偶者が自宅を相続するに当たり、他界した配偶者の兄弟姉妹に連絡し、合意形成をしなければならないという事案です。
御案内のとおり、保岡先生は前回の衆議院選挙で勇退をなされまして、その後、他界をされました。この所有者不明土地問題に関する造詣は大変深く、思い入れがあったというふうに思いますけれども、もうたっての女性ただ一人の役員でございました当時の上川陽子現法務大臣、三期目の就任ということでございますけれども、何か所感があればお聞かせをいただければと。
私の地元鳥取、島根におきましても、松本京子さん始め多数の拉致被害者がおられ、御家族が他界、高齢化する中で一刻も早い解決が望まれるところ、今度こそという思いで、バイデン政権と菅政権には非常に期待しているところでございます。 他方で、北朝鮮、先月また相次いでミサイルを発射し、挑発行為を再び始めるなど、これまでの国際的な一連の制裁措置ではまだまだ懲りていない様子でございます。
(拍手) 私は、父が現職で他界した後を継ぎ、平成二年に初当選しました。当時は、天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、湾岸戦争と世界は激動し、国内では政治改革の嵐が吹き始め、大きな時代の転換期を迎える中、選挙でもその時代背景を映し、多くの新人議員が誕生いたしました。
ゴルバチョフ大統領は約束を果たしましたよという話をされたわけでございまして、その一か月後に父は他界をしたのでございますが、何とか次は私たちの世代でこの問題を解決をしたいと、こう固く決意をしているところでございます。
老人夫婦、あるいはまた他界されてお一人になってしまっている。ずっと農家でやってきたから、年金というのは国民年金、月額六万円台。そんな中で、この残された八人槽の浄化槽、いろいろを足すと年間七万円にもなるんですね。年金暮らしで苦しいところに、この年間七万円というのは過酷になってきています。この問題にどう対処するかということなんですね。
参考人質疑で、工藤祥子参考人は、教員だった夫の義男さんを過労死で亡くされた経験をお話しされる中で、他界一カ月前の二百六時間に及ぶ時間外勤務のうち、労災認定されたのは半分以下の九十七時間だった、認められなかった時間は、給特法で超勤四項目以外の超過勤務が命令によらないものとされ、本人が勝手にやった仕事だと扱われたからだとお話しされました。
また、体育教師であったので、健康が不可欠であると、毎年人間ドック、工藤祥子参考人も同行されて、三年に一度脳ドックを受けて健康管理もして、特に異状なく、他界一年前の脳ドックでは、将来クモ膜下出血を起こす可能性はほとんどないという所見を受けながら、クモ膜下出血で亡くなられたということです。 今回の一年単位の変形労働時間制を導入すれば、こういった問題が解決できるのか。
それは、五月、六月、十二月というのは一番行事が多い時期、それから四月に新学期等が始まりまして、環境の変化もあって、そこについていけない上に行事が多いということで、そこの疲労がとれずに他界してしまう、また精神を病んでしまうという例が非常に多いです。 また、一月はなぜかということをいろいろと考えて、お話も聞いたんですけれども、やはり冬休みもとれないような業務の量。
私自身、実は二十のときから学校法人の理事長をやっているので、うちの父が他界してしまった結果なんですけれども、二十四年近く教育の現場に立っていたので、九九%の保護者の方というのは、やはりちゃんと御理解もいただいて、自分の子も人の子もみんな成長していこうという思いがあるんですが、本当に一部の方で、本当に先生方が精神的に追い詰められることが、私も本当、肌感覚でよくわかっておりますので、そういったものも含めて
この間、被爆者の高齢化が進み、勝訴判決を聞くことなく他界する被爆者も後を絶ちません。司法判断と行政判断がずれているということ、これがなかなか埋められなくて、結局裁判に訴えなくちゃいけなくて長期化している。これは、もう被爆者の皆さんたちも年齢が平均してたしか八十二歳ぐらいになっていらっしゃって、もう根本的な解決をすべきだと思います。
宮城県の石巻市でグループ補助金によって店舗を再建をして薬局を営んでいる女性は、薬剤師の免許を持つ夫が病気で他界をされ、後を継いだ長男も他界をして、現在お一人。薬剤師の免許がないために、御本人がいないために営業を続けることは難しいけれども、店を畳むと補助金の返還義務が発生するために、医薬部外品を扱って、そして細々と経営を続けている。
ただ、あの当時の設計、一九六〇年代のマーク1型の設計者というのは、もう年をとられて、他界された方が多かったり、発言する人というと、唯一責任を持って言ってくれるのは、ブライデンボーというGEの技術者がいるんですけれども、その方と今コンタクトをとって、やはりレジェンダリーの人なものですから、その人の発言を記録に残したいと思って、その作業を個人的にですけれども今しておるところです。
誰よりも私が国会議員になるのを楽しみにしてくれていた私の父は、私が参議院選挙に当選する半年前に腎臓がんで他界しました。父は議長と同じ昭和十四年生まれ。しかも、出生地は、伊達議長のお生まれになった芦別の隣の北海道は富良野でありました。戦争遺児の私の父はぜいたくが苦手で、食事のときは、空腹は最大の調味料だが口癖でした。
私は、もう両親が他界しましたので、自分がかかったかどうかは正直言って分からないんです。あわせて、自分がはしかにかかったのかどうか、これを知るすべはあるんでしょうか。併せて質問します。
名古屋オリンピックの初代誘致委員長は、他界した私の父親でした。 サマランチ会長が名古屋に見えるというときに、韓国・ソウルは国を挙げて歓迎して、韓国という国家をスポーツということで盛り上げてもらいたいという歓迎があったけれども、逆に、名古屋では、実はオリンピック誘致に対して一部の方から反対運動が起きた。
私自身は、もともと歯科医師でございますが、その前に、大学二年生に入ってすぐにうちの父が他界しまして、それから自分で会社を立ち上げたり、いろいろな仕事をやりながら、もちろん歯科大学を出たので歯科医院も開業しておりますし、会社もやっておりますし、また、学校法人そして社会福祉法人という形で設立をさせてもらって、いろいろな事業をしておりますが、私がいつもこういう分科会でお話をさせてもらうときに、意外と政治家
私の祖父母も父も元島民であり、祖父母も多くの親戚も、島での当時の生活を語っておりましたが、既に他界しております。 私にしてみれば、島民二世と言われてもぴんとこないのが本音でありますが、現状を鑑みると、一日でも早い北方領土問題の解決を望んでやみません。