2019-11-27 第200回国会 衆議院 文部科学委員会 第10号
ここに書いてあるんですけれども、兄の記録によると、この年に、北朝鮮人民委員会が、つまり当時の北朝鮮政府だと思います、日本人部、人民学校の日本人部に支出した金は、産業局から二百三十万円、財務局から子弟教育費として二百万円となり、これは日本人部が属している北朝鮮工業技術連盟の年間予算の三十万と比べると、まさに破格の扱いだったと言えるというように、政府からお金が出ていたということなんですね。
ここに書いてあるんですけれども、兄の記録によると、この年に、北朝鮮人民委員会が、つまり当時の北朝鮮政府だと思います、日本人部、人民学校の日本人部に支出した金は、産業局から二百三十万円、財務局から子弟教育費として二百万円となり、これは日本人部が属している北朝鮮工業技術連盟の年間予算の三十万と比べると、まさに破格の扱いだったと言えるというように、政府からお金が出ていたということなんですね。
あるいはベトナムでは、これはハノイとかホーチミンの市を区単位に分けてありまして、その区の中で一店目はいいんですが、二店目を出店しようとするとエコノミック・ニーズ・テストというのを行わなければいけなくて、その市の人民委員会によって、ほかの小売店舗の数ですとか市場の安定性ですとか人口密度ですとか、そういうのを全部審査を受けて通らなければいけないということで、非常に厳しい規制になっていました。
その後、現地のカントー市の人民委員会の委員長、つまり市長さん、それから、ビンロン省という、最も多くの犠牲者を出した省でありますが、そこの知事に当たる方と会談をいたしまして、遺憾の意を表しますとともに、ズン首相、それから担当であります交通運輸大臣、ズン大臣でありますけれども、この方にお会いをして、心からの弔意を述べますとともに、今後の問題について御相談をいたしてまいりました。
この点について、まあこんなことを議論なさったかどうかということはあるんですが、何かベトナムの政府関係筋と、人民委員会ともお会いになったようですけれども、こういった問題、あるいは団の中でも何か御議論があったのかどうか、その点ちょっとお伺いしたいと思います。
人民委員会、閣議、憲法制定議会等により決定されている国、中華人民共和国、インド、オランダ、イタリア、スイス、ドイツ連邦共和国、オーストラリア、チェコスロバキア、ソビエト社会主義共和国連邦、ニュージーランド、エチオピア等々。まだまだありますけれども時間がありませんからやめます。
残念ながらよくわからない点が多いわけでございますが、ただ私ども承知している限りにおきましては、北朝鮮におきましていわゆる北朝鮮臨時人民委員会が一九四六年三月五日の北朝鮮土地改革に関する法令というものによりまして、日本国、日本人及び日本人団体の所有地を没収いたしまして、一九四六年八月十日の産業、交通・運輸、逓信、銀行等の国有化に関する法令というもので日本国及び日本人所有の施設を国有化したというふうに承知
○山崎委員 一九八七年七月二十七日の朝鮮時報によりますと、「朝鮮民主主義人民共和国中央人民委員会政令によって、北塞通りと牡丹峰地下道建設にこめられた愛国的在日朝鮮商工人の安商宅氏の高い忠誠心と愛国心を永く伝えるため、ここを「安商宅通り」と命名した。 安商宅通りの地下道建設者は、一年はかかるという、のべ三千余メートルの坑道建設を三カ月にもならない短期間で終わらせた。」
そのほか、中国、インド、ソ連、カナダといったような国々では、正式の新しい国ができましたときの議会の前身ともいえるような人民委員会、会議とかいったような、そういった会議で宣言あるいは採択というようなかっこうで国歌をきめておるという国々がございますし、英国、デンマークにつきましては、国歌につきましても慣習によっているというような大体の状況でございます。
それから戦時共産主義の時代でありますが、いろいろなことが書いてありますが、この点について申しますと、「基本的な諸タイプの教育機関の教育課程、また次に講習会、講演会、読書会、座談会、実習の教育課程は、参与会と人民委員会によって仕上げられる。」人民委員会と申しますのは教育ソビエトでありまして、国民が直接選挙しました機関であります。
そうするならば、月に大体四万円程度のものを確保してやるからということで、子供二人をかかえて、中国人の御主人と生き別れて引き揚げてきて、現在生活保護法の適用を受けておる女性に対して、経済的な、物質的なものを振りかざして協力を求めるというような態度は、それは調査官として協力を求めたい、ことに馬田さんが中国のある地方の人民委員会の、いわゆる県庁に勤めておったという点から、やはり相当事情を知っておるのではないかということで
○参考人(鹿養徳一君) では、自分個人の経験しました中からの概略だけを申上げますが、私はハルピンで終戦を迎えまして、一九四五年八月十五日から強制留用に会う一九四六年の八月までハルピン市中に住んでおりましたが、その当時の日本人人民委員会の会長からの依頼によって、ハルピンへ避難して来ました人たちの救済を目的とした技術営団、いわゆる工場営団を作るために技術者を必要とする、その履歴書を出せと申しますので、自分
太つて帰つて来た、あるいはいい待遇を受けたという証人の証言を得たのは、いわゆるアクチーヴと向うでいうところの、共産主義者として特別の扱いをされた人たち、あるいはまた政治工作員として働いた人たち、あるいは人民委員会の委員長であつた人たちは、それはすき燒も食べさせられたり、あるいはカフエーにも行つていたと言われます。
八月末までの間に各地所在の朝鮮人共産主義が組織いたしました人民委員会に行政権を接收せしめました。これに対し米軍は九月八日南鮮に上陸し十一日に京城に軍政部を設置して統治権を持つに至のであります。