1980-11-05 第93回国会 衆議院 法務委員会 第3号
第六番目には血盟団事件、井上日召事件の取り扱いについても司法省と検察庁との一つの癒着がありますね。いよいよ戦後に入って昭和電工事件にも、法務大臣ですか、君臨すれども統治せずなどという言葉とうらはらの結果が出ていると私は読んでいる。それから、大橋武夫法務大臣と検事総長との二十五条解釈問題に対する論争については、先般も質問いたしましたからやめにいたします。
第六番目には血盟団事件、井上日召事件の取り扱いについても司法省と検察庁との一つの癒着がありますね。いよいよ戦後に入って昭和電工事件にも、法務大臣ですか、君臨すれども統治せずなどという言葉とうらはらの結果が出ていると私は読んでいる。それから、大橋武夫法務大臣と検事総長との二十五条解釈問題に対する論争については、先般も質問いたしましたからやめにいたします。
第六番目は血盟団事件の井上日召の取り扱いについて。第七番目には、いよいよこれは終戦後へ入りますが昭和電工事件。それから第八では政治と検察との争いの問題。それから第九番目はいわゆる造船疑獄と指揮権発動。 これまでずっと私は問題を整理してまいりましたが、私の調査によりますると、君臨すれども統治せずというのは真っ赤なうそだ。
血盟団事件の井上日召だって、あれだけのことをやって六年でもう出獄しております。しかも時の総理大臣の近衛さんの屋敷にかくまわれておった、こういうようなことがその後のテロの続出になってきた。あの血盟団事件、五・一五事件のときに減刑嘆願書が三十五万通も軍法会議に提出されたということは何に原因するのですか、一体そのような状態を再現していいのかどうかということが私どもの心から心配したところなんです。
その他血盟団事件の井上日召、これも四年で出獄しておる。小沼正、その他橘孝三郎、みんな恩赦で出獄してしまった。あれだけの血盟団事件として天下を聳動しました者にして死刑になった者は一人もいない。結局これはテロも悪いがデモも悪いというような俗論にこびた裁判をやったのじゃなかろうか。
慰霊祭の実行委員長には小山田劔南氏が就任、発起人代表としては井上日召、橘孝三郎、三浦義一等が決定いたしておりますが、当日は出席をしておりません。約五千枚の慰霊祭の通知状を全国の右翼関係者に発送いたし、参集を求めた次第であります。当日の現況につきましては、午後一時十九分に開会をいたし、午後三時三十六分に散会をいたしました。参会者は、最高時におきまして二千三百名程度でございました。
○猪俣委員 これは小さい問題でありますが、井上日召がやめて佐郷屋がなってから、護国団の方針というものが、彼らの文書等を点検すると、百八十度変換した、非常に左翼的になってきました。そこで、あなたが今運動方針が違っているというのは、そういうことじゃないですか。私は井上日召がやめたのは、護国団の性格が変るための脱皮作用と考えているが、公安調査庁はどういうふうに考えられるか。
○猪俣委員 なお、小さい事件でありますが、公安調査庁の活動について知りたいからお尋ねいたしますが、戦時中一人一殺主義をもって立っておった井上日召という男を団長として護国団というのがある。これが、井上日召がやめて佐郷屋という人物が団長になった。それはどういう理由に基くか。その佐郷屋も今度は辞任して、護国団は解散するようになったというが、その原因はどこにあるか、それを御説明いただきたいと思う。
井上日召が団長を辞任いたしまして、佐郷屋新団長になったのは、これは、当時の護国団の組織方針あるいは運動方針というものと井上日召氏の考え方が必ずしも一致いたしませんで、老人の井上日召が引退して、新しい佐郷屋が護国団を率いて再出発したというだけのことと考えております。
○山花委員 ただいま阿部さんのお話は、個人としては、暴力団であるか、あるいは何か手入れを受けたことがあったかなかったか知らない、理事長個人がこの団体のつながりのある役職員をしているような関係で、そういうところから来たのじゃなかろうか、こういうお話でございましたが、少くとも、大体社会常識を持っておられる方は、護国青年隊と申しましょうか、機関紙も発行しておりますが、内容は一人一殺、井上日召の主宰する暴力団
○山花委員 これは警視庁の方にお答え願う方が妥当か、あるいは公安課長さんの方にお答え願うのが妥当か、これは私ちょっとわかりませんが、護国団の発行している新聞に、井上日召の一人一殺という広告がよく出ておるのですが、ああいう広告は公安上どんなものでしょうか。公安を害するおそれありと見られるような広告であるか、あるいは別にそういうおそれなしというふうな御見解を持っておられるのかどうか。
ただ、私の記憶では、一人一殺ということを主張しておるのではなくて、かつての記録をまとめたものを「一人一殺」という題で著書にしておる、その著書の広告の文言ではないかと私は記憶しておるのでございますが、さようになりますと、現在井上日召氏が一人一殺ということを考えておるのではなくて、かつての井上日召氏の経歴をそういう題名の本にしたというにとどまるのではなかろうかとも考えられる次第でございます。
五月二十四日に、例の井上日召師の作る護国団員四名が警備の腕章をつけて受付などを行なったのであります。翌二十五日に警備員が十名にふえました。さらに二十六日に、これら警備員は護国団親衛体の腕章にかえて十七名くらいになったようであります。 組合は、五月二十七日に三多摩地労、全医労各支部、東医労、日共清瀬地区委員会等九団体と生光会争議共闘会議を作りました。
先ほど、局長からいろいろ御報告がございましたように、たとえば生光会の争議に、初めは四人、それがだんだん人員がふえて、最後には相当数の護国団親衛隊——この護国団親衛隊というのは、私の記憶によりますと、ついせんだって暴力団の容疑で検挙されたというようなことを本聞いておる、これは井上日召が主宰する、一人一殺ということをスローガンに掲げて、この民主主義の世の中に、ずいぶんとっぴなスローガンを掲げて運動をやっておる