2021-04-23 第204回国会 衆議院 環境委員会 第7号
北條五代と、そして二宮尊徳翁のお話を引き出していただいて、本当に、地元の市長として大変うれしく思います。 というのは、やはりそういう歴史があって今の小田原市ができているんだということを、私も常々、様々な政策を進めていく上で実感しているところでございます。
北條五代と、そして二宮尊徳翁のお話を引き出していただいて、本当に、地元の市長として大変うれしく思います。 というのは、やはりそういう歴史があって今の小田原市ができているんだということを、私も常々、様々な政策を進めていく上で実感しているところでございます。
実は、資料の三をごらんいただきたいと思っていますが、これは、江戸時代の末期に六百を超える村々の復興に取り組んだ二宮尊徳翁が記した「三才報徳金毛録」という本であります。たまたま、私の地元の日光市にこの記念館ができたものですから、先日行ってみたら、この展示があったので、いただいてきました。本物は国会図書館に所蔵されております。
○福田(昭)委員 私は、原丈人君と行き会う前は、実は、二宮尊徳翁の考え、それをしっかり尊重しながらいろいろやっているものですから、報徳資本主義と言おうかなと思っていたんですよ。でも、わからないだろうなと。それに比べると、公益資本主義というのがわかりやすいなと。名は体をあらわすといいますので、やはりしっかり言葉からイメージが湧くような言葉というのは大事だなと思ったんです。
最初の二宮尊徳翁につきまして、私も何冊か本を読ませていただいておりまして、尊敬をする方だというふうに思います。特に、農家の出身でありながら、複利、そういうものまで編み出したという大変な方ですし、いろいろなところを再建するという信念も非常に強い方だと思います。
そうした中で、地域を舞台とした番組の充実について、こういうところがございますけれども、会長、恐縮でございますが、二宮尊徳翁を御存じですか。そうですか。 実は、二宮尊徳翁は小田原生まれで、私の地元、日光今市が終えんの地で、眠っております。この二宮尊徳翁は、実は内村鑑三さんが日本を代表する五人の一人に挙げております。
二宮尊徳翁の報徳の心、経済と道徳がまさに問われるゆえんがあります。 滋賀県の場合は、盆地の中央に県土の六分の一を占める琵琶湖があり、残りのうち約半分が山林、農地は一四%ほどであります。米や野菜は京、大阪の台所としての役目を果たしております。地形的には、平野部が少なく、多くは山間での営農形態で、最近、野生獣によります被害が顕著になってきております。
消費税を上げる前に、私は二宮尊徳翁をえらいこと尊敬して、二宮尊徳翁が立てる分度というのがあるんですが、日本の国としての分度というのがどれだけなのかというのをやはりしっかりまずやるべきだと思うんですね。それが今、残念ながらやられていない。
これは、伊吹大臣は大変聡明な方でありますから御存じかもしれませんが、江戸時代の末期に活躍された二宮尊徳翁が目指した人間像というのがあるんですが、もし御存じならばお話しいただきたいと思いますし、もし御存じでなかったら私の方からお話しさせていただきます。
実は、私、寂しい思いをしたことがあるんですが、市長時代とか知事時代、文部科学省にお邪魔して、当時の次官とか生涯学習局長と話をしたことがあるんですが、全く二宮尊徳翁のことを知らなくて、実はがっかりしたことがあるんです。ぜひこれから文部科学省としても、もう一度参考にしていただきたいと思っています。
そうした中で、先日、NHKが二宮尊徳翁を二回ほど放送したという話でございますが、尊徳翁は実は私のところに永遠の眠りにつかれておりまして、終えんの地でございますけれども、その尊徳翁がこういう話をしているんですね。道徳を忘れた経済は罪悪である、経済を忘れた道徳は寝言であると。経済と道徳一元論を実は説いているわけであります。
私は、江戸時代の末期に、倫理観を持った経済活動や心の教育に取り組み、農村復興はもちろん、藩の財政再建を実現した二宮尊徳翁のフロンティアスピリットあふれる教えに学んで、町づくり、県づくりに取り組んでまいりました。その大きな成果として、栃木県のプライマリーバランスを十四年ぶりに黒字にすることができました。
今先生は宮沢賢治の話を出されたわけでございますが、私は、最近ちょっと注目すべき人物として二宮尊徳翁を考えております。二宮翁は、幕末近い時期になりますけれども、年月を経て疲弊する農村が随分たくさん出てくる、武士階級の中でも衰退していく家が出てくる、そういうところの再興に取り組んで、随分たくさんのところをきちんと村おこしをした方でございます。
かつて、二宮尊徳翁の言葉でございますけれども、道徳なき経済は罪悪、そして経済なき道徳は寝言、こういうふうな言葉があったのだそうでございます。経済というのは比較的目の前で問題が解決されてまいります。目の前で勝負がつく問題であります。
ですから、二宮尊徳翁というものはそういう勤勉さ、実直さ、そして親を思う、兄弟を思う、自分は汗して弟のために、妹のために、親のためにという、そうしたことに大変感銘した姿として今日生き続けているということでございまして、ただそれだけのことなんです。
それから、二宮尊徳ということにつきましても、これは私もいい勉強になったんですけれども、私が二宮尊徳ということについてお話しいたしましたところ、ここにいる次官が、大臣、こういう二宮尊徳翁の人物評があるんですよと言って持ってきてもらった文献があるんです。
○村上国務大臣 まず、二宮尊徳翁という一つの固有名詞を出しました。これは、私ども、昭和七年生まれで、戦前の小学校の教育を受けてきましたが、小学校へ行きますと校庭に二宮尊徳像が、ちょうど入り口にあるのですね。そして、私たちが教えられたことは勤勉ということなんですね。
私は勤労の価値観について、あの二宮尊徳翁のお話を申し上げた。といって、私は何も二宮尊徳翁の研究家でも何でもないのですけれども、私が要するに申し上げたかったことは、資源の乏しい我が国が今日のような経済的発展を遂げることができたのは、日本人の勤労の美徳、働く価値観を大切にしたからではないだろうかこう申し上げたわけであります。
○占部秀男君(続) 偉大な哲学者であり、実践的な農政家である二宮尊徳は、その二宮尊徳翁夜話の中で、「農は人なり」と喝破しておりますが、まさにそのとおりでございまして、農政の本質は、まず農民を生かすところにあると私は考えます。
最後に、河井さんの奉ずる報徳宗の二宮尊徳翁が、イモ洗い主義ということを言っておりますが、われわれ人間は、凡俗であります。イモと同じく、お互いにイモを洗うときのようにぶつかり合いながら洗われて、清められて、その人格を作り上げなければならないのであります。国会は、民主主義の運営の最高の場で、国民環視の中にあるのであります。
なお、豊平町におきましては、遺家族の指導に当る民生委員の精神的向上を期するために、二宮尊徳翁の二宮講に半月間も小田原に全額町費で順次派遣して受講させているとの町長の説明でありましたが、遺家族の自力更生と精神的発奮を推進する一つの試みとして注目した点であります。
しかしながら、財政はあらためて申し上げるまでもなく入るをはかつて出るを制すでありまして、何としても二宮尊徳翁の分の生活をやつて行かなければならない。余儀ないことではあるけれども、このささやかなる予算といえども、最も効果的に、最も能率的に、これを正しくできるだけ妥当に行使するように政府において、これは閣僚各位がよく後懇談の上御善処を願わなければならないことであると私は考えております。
一番近いところで思いつくのは二宮尊徳翁であります。これは日本の農村には適する。古いところでは、支那の文化と日本の文化とを融合せしめて和魂漢才の偉人である聖徳太子を私は尊ぶものでありますが、文部大臣はどういう人を尊びますか。これは子供だましのようであるが、英国の有名な社会学者のマクドウガルは、「グループ・マインド」という書物を書いて、愛国心と英雄と離れることはできない。
この村は有名な二宮尊徳翁の末孫が報徳社を立てられて、これを経営の面に織込まれて開発されたところの有名な豊頃村農村であります。この両河川ともに十勝川に合流しておりますが、豊野牛川は延長約二十キロ、牛首別川は延長約四十キロであり、いずれもその流域百四十平方キロに達する地味豊沃な農耕地に流れております。