2014-03-13 第186回国会 参議院 内閣委員会 第3号
それから、その裏に、これは第二設営班の矢部部隊というところですけれども、この設営班の中に、「主計長」として、「海軍主計中尉 中曽根康弘」とありますので、ここで言う、その前のページの「主計長の取計で」というのは中曽根元総理のことだということはこれでお分かりいただけると思います。
それから、その裏に、これは第二設営班の矢部部隊というところですけれども、この設営班の中に、「主計長」として、「海軍主計中尉 中曽根康弘」とありますので、ここで言う、その前のページの「主計長の取計で」というのは中曽根元総理のことだということはこれでお分かりいただけると思います。
そして、次のページを見ていただきますと、この「主計長の取計で」という主計長、真ん中ぐらいで、海軍主計中尉中曽根康弘さんというふうになっております。こういう資料も新たに見つかってきているわけですね。 この慰安婦問題、私は非常に深刻に受けとめているんですね。ただ単に強制するという文字がなかったというだけで、果たしてその論理が成り立つのか。
ところが折あしくも太平洋戦争のさなかであったために、大蔵省をすぐに退職されて海軍経理学校に入校、翌年には海軍主計中尉としてマニラへと赴任されたのでありました。 終戦時、大連におられた先生は、そこで当時のソ連軍の捕虜として抑留され、苦難の末にようやく昭和二十二年に復員されました。
総理は大正七年のお生まれで、終戦を多分二十七、八歳でお迎えになられて、戦時中は海軍主計中尉であった、このように聞いております。その点、違ったら訂正してください。少佐ですか。ごめんなさい。大変失礼しました。 あの第二次大戦を身をもって体験されておられまして、そういったいろんな体験の中で確立された政治哲学を持って、この四十年間政治家として活動されてこられたものと思います。
昭和十六年四月十八日付、海軍主計中尉に任ぜられ、第六期海軍補修学生として、東京築地の海軍経理学校で猛烈な訓練に従事しました。 やがて空母「飛龍」乗り組みを皮切りに、海南島勤務を経て機動部隊に属し、ソロモン海域で戦い、次いでジャワ方面勤務と南方各地を転戦し、昭和二十一年六月復員され、内閣、労働省を経て、昭和二十四年大阪府に勤務されました。 敗戦直後の地方自治体の最大問題は食糧問題でした。
海軍主計中尉当時に戦艦「扶桑」に乗り込まれ、後、南方洋上の海戦で遭難、負傷され、その名誉ある戦傷が今回の不幸の遠因となったものと推察をいたしますが、九死に一生という運命的な体験は、後に政治家として社会に貢献を志す大きな契機となったものと思われます。 君の知事在籍十二年の功績は枚挙にいとまがありません。
もう少しちょっと補足をさせていただきますが、この軍関係の土地の買収あるいは接収に当たった方、当時の記録を、あるいは当時の関係者等を調べてみますというと、もと沖繩にありました第三十二軍参謀陸軍中佐の神直道さん、それから旧陸軍大佐の八原博道さん、旧陸軍中佐の釜井耕輝さん、それから同じく元三十二軍経理附陸軍主計中尉の田中護利さん、こういう方が関係をいたしておったようであります。
○柏井説明員 この方は三名ございまして、先ほど御指摘がございました三十二軍の高級参謀の八原博通さん、三十二軍の参謀の釜井耕輝さん、それから三十二軍経理部付の主計中尉田中護利さん、この三名の方の資料がついております。
それからまた、同じく昭和三十九年の十二月三日に、元第三十二軍経理附陸軍主計中尉の田中譲利という人は、やはり同じように、「戦争が済んだら土地を元地主に有償で払い下げることを地主に申し渡したことは事実であります」というふうに証言をしている。つまりこれは、国家総動員法十三条、またその十三条を受けて十五条には、用事が済んだ土地はこれは旧所有者に払い下げるという趣旨のことが書かれているでしょう。
会っていないで、同じく二十三連隊の主計中尉であった高橋久能という人が坂田さんに協力をして、この准尉に会いに行っておるのです。会いに行ってその准尉との談話を持ってきて坂田さんに報告している。坂田メモに入っている。それによれば、原口氏が吉池軍曹の死亡の証明書を書いたと自分で言った。私が書きました。
さらにこの原口准尉は、二十三連隊主計中尉の高橋久能という人に次のようにまた語っている。このことは終戦後上陸地でつじつまを合わせるためにつくったもので、軍法会議からの通報や何かではなくて、いろいろな人のうわさや何かを、話し合いを集めてつくったものでございます、こういうようなことを言っておる。私は、そこで作成に当たって有村大尉がいかなる権限でそういう報告書をつくったのか。
民社党に永末君という議員がおりますが、彼は海軍で予備学生から主計中尉になり大東亜戦争に出まして四回くらい泳いでおります。それで、彼がもし艦長に殉じて死んでおったら国家のためにいま働くことはできないし、民社党も、永末君という人がいるためにどれくらい日本の防衛政策が前進しているかわからないと私は思っております。友人として非常に敬意を表しております。
その後、日本アマチュアレスリング協会を創立しており、ロンドン大学に留学、帰国後大谷総裁秘書として北支開発株式会社に入社、その後陸軍主計中尉として応召され、解除後再び同社に終戦まで勤務しておりますが、何と申しましても八田一朗君は世界のレスリング界に日本の名をとどろかした功績は大なるものがあります。
だから、酒やたばこはのまぬでもいいというなら、これはまた別な理屈があるんですが、私は主計中尉をやっておって、中支の戦場で実は千八百人の部隊の主計をやっておった。そこでいろいろ調べましたら、たばこをのまぬ人は十人のうち一人しかいない。酒はもう少し——私、自動車の部隊におったのですか、酒を飲まんならぬという人は十人のうち三人。たばこは絶対です。九人くらいある。
その当時、不幸にも大東亜戦争が昭和十六年十二月八日に勃発をしまして、私は済南の十二軍の隷下におったわけでありますけれども、アメリカ、イギリスのごとき大国、ことに資源の多い、生産力の旺盛な国家を向こうに回して戦争するということについてはわれわれ民間から召集された者としては当時非常な疑いを持って、当日将校集会所におきまして、この戦争の見通しは非常に困難だということを同僚の主計中尉などと話をしましたところ
小林正孝、これは陸軍主計中尉です。角川久吉、これは太原の在郷軍人会の南分会の分会長で、歯科医をやつておりました。 それから、私も、山下参考人が言われました通り、やはり日本の状況というものについては、非常に物が豊富であるというような感じは受けました。しかし、このように物は豊富であるけれども、買えないというのが実情であるというふうに考えます。
○景山証人 その点は、藤堂主計中尉がリストをそらでつくるくらい内容をよく覚えておつたのです。藤堂主計中尉は、帳簿がなくなりましてからも、その点覚えておつて、リストをつくつて軍事課へ出したという話を聞いておりました。藤堂主計中尉がよく覚えておるはずです。私の記憶の方が、預かつてから二箇月しかたつておりませんし、すぐ封をしてしまいましたので、もし食い違つておつたか私の記憶が間違いだと思います。
○景山証人 その点は、私の記憶が確かでございませんから、できれば藤堂主計中尉を一ぺん呼んで聞いていただきますと、藤堂主計中尉は長くそれを扱つておりましたから、確かなことがわかると思います。それから、出したときと受取つたときの検査あたりも、あけたのはたしか藤堂主計中尉があけたか、あけずに軍事課に渡したか、存じませんが、藤堂主計中尉が詳しいことを知つております。
ちようどそのときの委員長というのが、今ここで弁護士をやつておるそうですが、満州の主計中尉をやつておられた飯沢壽一という東大出の人ですが、それらの人が指名されたわけです。そのときは——はつきり言いますが、これはどこでも同じことです。この民主委員会に與える権能の中で最も重大なのは、帰還者の順位に関してソ連当局に申請する——決定ではありませんが、申請することを認めるということは間違いありません。
それに関連して申上げたいのですが、これは滿洲軍の主計中尉だつた男で、この相棒を務めた男が東京に帰つておりますが、昨日面会に來て本人にも言うたのです。勤務場所の違う関係で分らないのですが、それと、この溝口辰夫という男が二人でやつた劇の中でノルマのことを言い、絶食して曉に所つたこともあつたが、お蔭でこれだけのものを持つて帰れるのだと言うたときには、隊員全部がよくやつたという氣持だつたのでしよう。