1965-03-25 第48回国会 参議院 法務委員会 第12号
たとえば、運輸省で丸通などの関係においても、これは一時統合により一駅一店主義になったけれども、それではいかぬということで、やはり複数制にしなきゃいかぬというようなことが輸送の関係において起こってくるんですね。裁判というのは、最も情実を排し、公正でなけりゃならぬ。そういうところからいいますと、つまり法の一種の執行機関ですから、法律が幾らよくできておっても、執行機関が悪ければしょうがないですね。
たとえば、運輸省で丸通などの関係においても、これは一時統合により一駅一店主義になったけれども、それではいかぬということで、やはり複数制にしなきゃいかぬというようなことが輸送の関係において起こってくるんですね。裁判というのは、最も情実を排し、公正でなけりゃならぬ。そういうところからいいますと、つまり法の一種の執行機関ですから、法律が幾らよくできておっても、執行機関が悪ければしょうがないですね。
都市周辺は地獄、地方はサービス切り捨て、こういうどっちにしてもいい方向に動いていないと思うのですが、それに関連して丸通はまた中間の小さな駅のものはどんどん店を廃止するという形になりまして、採算第一主義、外にふくらまして滋養と武器とを取ってくるという、それは運賃値上げの形はどういう形になりますか、需要者にすぐ吹っかけるということは、全体としてなんでしょうが、そういう問題はそういう問題として政府部内で、
それからあなたの言ったような、「東西南北」という、何か丸通のスポンサーのついたものに、岩井総評事務局長を出して話をさせているから、一方的ではないというような注釈を加えている。これは私はルーズではないかと思う。もしこのままの形でいけば、これから同じことが繰り返されるということでもあるし、正当化されるということでも、私はあるんじゃないかと思う。私はそうあってはならぬというふうに思う。
これによって起こった被害は、炭鉱の社宅といたしまして二百戸民家十戸、商店五戸、潜竜駅、丸通の事務所、江迎炭鉱の関係といたしましては工作事務所、配電所、鋳物工場、電修工場、坑内から巻き揚げる六百馬力の巻揚機、こういうふうなものがこわれ、あるいは埋没いたしておりまして、この全体のボタ量は三百十万立方メートルでございますが、その約三分の二の二百十七万立方メートルが移動しておりまして、そのうち流出したボタといたしましては
それから翌九日でありますが、九日未明の二時半ごろから、堆積中のボタ山の下部の旧ボタ山、これは昭和十一年ごろから堆積したものでございますが、この旧ボタ山に亀裂が入りまして、これがまた動き出した、そうしてきのう、九日でございますが、朝の七時ごろまでには会社の炭住二百七十戸、それから潜竜駅、丸通、その付近にございます飲食店等の五戸が流失埋没したようでございます。
○八谷説明員 私どもに入っております情報では、潜竜駅付近の丸通、それからこの付近にございます飲食店ほか商店五戸が流失埋没をした、こういうことでございます。それから先ほど申し上げましたように、江迎川がせきとめられまして、道路の方に、いわゆる商店街の方に水がオーバー・フローしていったということで、いわゆる浸水ということが起きたようでございます。それ以後の状況はまだ的確につかんでおりません。
私はやはり鉄道の経営が赤字だから、丸通が赤字だから、その赤字の内容に立ち入ってもう少し検討するくらいの勇気がなければどうにもならないと思う。これは国民的世論ですよ、最近は。ほとんど全部が赤線だ。その赤線の上にまた新線が赤線になって、いっこれが黒字になるのかわからないような新線をきめた、こういう議議がもっぱらの議論になっているのですよ。
そうしますれば、私はその点をいま一歩踏み込んで考えてみましたならば、当然できるのではないかということと同時に、だんだんと運賃だけを上げていって、将来において果して国鉄、丸通が完全経営ができるかといえば、他の方では道路は整備してくる、自動車はだんだん発達してくる、他の方ではだんだんと競争力が強まっているときに、片方では逆に上がってくるということであったら、これは逆に困ってきて、運賃を上げていくほかはないと
○清澤俊英君 僕も資料を一つもらいたいが、経営のできない、一駅一店主義で経営の困難を来たしているいわゆる赤字経営である小駅の丸通、そういう支店ですかなにかあるだろう、それがどれぐらいあるか、その数を。
従いまして、今、丸通以外の通運会社が全国組織として——昔の丸しめとか丸運というような全国組織というのはほとんど見られないと思うのです。結局は到着駅においては丸通との関連においてやっているのじゃないかと思う。結局個々のものができたといっても、今の場合まだ丸通の独占の体系になっていると思う。それは直接の丸通の取り扱いが六二%か知りませんが、あとの分でもそういう点においては基盤の中に入っていると思う。
そうしてこちらは一般の丸通なり日通なりにこの荷物をとってくれと書類を渡しましたときに、それをさらに違う運輸会社が扱っておる。この運輸会社がどの倉庫会社に委託したかは、これはもうよその範囲のことで、荷主は知らないし、その運輸の、末端まで配給すべき会社も知らない。そこで両者が——倉庫業者と船から下してこれを国内輸送に充てるべき会社に当る運輸会社ですね、それはどういう会社になったか、荷主は知らない。
さらに経費の節減は、予算編成当時どうしてこういうことがわからなかったかということでございますが、これは今も御説明申し上げました通りに、一応運賃は丸通関係のものでございまして、従来引き続いてやって参りましたものをそのまま予算に計上したのでございますが、各方面を調査検討いたしまして、私といたしましては、丸通との契約を変更いたしまして、少くとも六、七億のものを節減したいということで、せっかく今、丸通と交渉中
隣の丸通運送店のかき根を借用しているような有様でございますのですが、昭和二十七年にお引受いたしましてから逃走延べ五名でございます。これもほとんどが公務執行を起した程度で、二カ月以内に逃げますが、子供に聞きますと、門のところで誰か追つかけて来てくれないかしら、つかまえに来てくれないかしらと、あとを振り向き振り向き行つてしまつたというようなのが三人ほどございました。
最後にもう一つ、丸通の点についてお聞きいたしますが、今丸通の新規に免許の申請をしておるものは、どのくらいございましようか。
これに関連して外郭団体その他についても、弘済会あるいは交通公社、丸通、あらゆる方面の外郭団体がみな、この大家族主義の名のもとに独占をしているということは、国民の信頼をつなぐ道ではないと思うのであります。
こういう見地から眺めまして見ました場合に、従来の運輸省と丸通等との、いわゆる通運との関連性から見まして、丸通を保護してやろうというような意味合からして、農協の事業というものに対して甚だ無理解であつたことを我々は遺憾に思つておつたところであります。漸く申合せができましても、これが運用に当つてはまだまだ相当に私は今後いろいろの問題が出て来やせんかと考えるのであります。
丸通と米の集荷について特約を結んでいられる問題について詳細の説明を求めておられると思うのだが、それはまだ聞いておりませんが、それがまだ残つております。
それから五月十一日には、又これは工場からのあれでございまして、我々の確認しておりますのは、これは丸通と日星産業とそれから県購連からの口頭要請で以て出動をしておるやに聞いております。それで、これはただ対峙したと申しますか、それだけで、当日は終日その日星産業や県購連の代表と労組とが押し問答はしておりますが、全然これもまあピケ隊が入つても看過したというようなほど慎重な態度を期しておるようであります。
考 人 (大洋漁業株式 会社長崎支社漁 業課長) 永井 次作君 参 考 人 (第二海鳳丸船 長) 久保田伴良君 参 考 人 (第一大邦丸船 長) 濱行 治君 参 考 人 (第二大邦丸通
○小野瀬委員 私の言うのは、あなたのお答えと違つて、一つのしつかりした交互計算機関が現在あるが、それもみな加入させて二元的にやらずに、丸通で一元的な交互計算方式、しかもその加入者につきましては何ら区別なく、たとば停車場の施設なども区別なしに使う、新たに許可になつた運送店も、その交互計算に入つて、新たなものをつくらずにやつて行つた方がいいのじやないかと私は考えております。
実際は、私長野県ですが、ちやんと丸通から送つて参りまして、こちらでもつて炭俵なら炭俵、空俵なら空俵で受取つて、そうして百俵足りないとか、あるいはまきが百束足りないとして、駅長証明で現地の方に送りますね。そういうことはあるのですかないのですか。足りないのを発送した現地の駅から、たとえば長野県の小諸なら小諸から秋葉原の駅に……。
合計いたしますと一億一千万円ぐらいにこの架空木炭の、いわゆる只取られてしまつた金があるのでございますが、大体これらの県では日本中の三分の一程度でございますが、外の県の薪炭業者も農林省或いは丸通或いは木炭の生産業者を通じて不正が行われておりますかどうか。この点につきまして大臣の御所轄でお分りになるものでございますならば承わりたいと思います。
それから第二の段階の行方不明のものは、今のお話によりますと、よくわかりましたが、かま前から都会へ着くまでの間の行方不明が全部で十四億ということになりますと、おそらく私はその十四億のほとんど大部分が、かま前からより駅の丸通に渡るまでの間の事故だと想像できる。
鉄道監になりまして、役人を止めて丸通の幹部をいたしておりました。現に中央道路運送委員会の委員長をいたしておる次第でございます。 それから平井好一君でございますが、大正七年に東京大学を卒業いたしま島て、船舶方面海運関係にずつと從事いたしまして、それから後経済安定本部の運輸局長をいたしておつた者でございます。