1955-05-23 第22回国会 衆議院 運輸委員会 第11号
これは中村船長と石井さんという船員の方が二人、紫雲丸では乗客以外に気の毒にもなくなったのですが、行って調べてみますとエンジンのあるところの上の段に貨車を入れてある。その貨車の一番奥の方に入っておって、そうして衝突後数分間で沈没した。
これは中村船長と石井さんという船員の方が二人、紫雲丸では乗客以外に気の毒にもなくなったのですが、行って調べてみますとエンジンのあるところの上の段に貨車を入れてある。その貨車の一番奥の方に入っておって、そうして衝突後数分間で沈没した。
○唐沢説明員 紫雲丸の中村船長は、生き残りました甲板部員に聞いてみますと、やはりあのときにはずっとレーダーをのぞいておりました。そうしてかじの命令をしておるのです。結局運転士の方も相手船の霧笛が右の方に聞えたので、船長、右の方に聞えますねと言ったら、ああそうだそうだと言いながらずっと見ておった。
第二に、ただいま申しましたごとく、レーダーの何たるかを解しない三宅船長や中村船長にまかせておいたのは、これは重大なる失態ではないでありましょうか。一体いかなる教育と訓練をいたしました結果、安心と認めてそれをおまかせになったのか。
○説明員(篠田寅太郎君) 中村船長の経歴を簡単に申し上げます。中村船長は大正八年十二月に国鉄の職員になっております。それから宇高航路の船長になりましたのは昭和十七年の七月でございます。そうして今回の事故を起しました。年齢は五十四歳でございます。なお家族数、本俸のことは一応今わかっておりませんので、なお調べましてから後ほどお知らせをいたしたいと思います。
○入交太藏君 今の紫雲丸のことについて私もお伺いしたいのですが、今の紫雲丸の船長は、中村船長ですか、本船長は何か非番であって休んでおったということを聞きますが、そうですか。それから中村船長は代理の船長になっておったかどうか。そういうことをお聞きしたいと思います。
両船ともレーダーを発動しておったことは、紫雲丸二等運転士鈴木秀夫(二十九才)第三宇高丸三宅船長及び同二等運転士杉崎敏(二十九才)の陳述にもある通り明らかでありまして、第三宇高丸三宅船長は『六字五十一分まで映像を見ていたが、紫雲丸は既定進路を航行していたごとくであり、進路を変える様子はなかった』と述べておりますが、一方紫雲丸の方は三等運転士鈴木秀夫は『中村船長だけが終始レーダーを見ていて、二等運転士が
どう考えても常識で判断のできないような衝突をしておるということが、相手方の中村船長が死んでおりますから、その点ははっきりしません。けれども大体国鉄側に責任があったということの裏書きになる資料を握ってくることができました。この点補足いたしまして、詳しいことは明日までの委員会に、文書によって各委員のお手元に配付したいと存じております。
翌日は県庁及び市役所を訪問、県並びに市の救助対策について、副知事、市長及び県衛生部長より説明を聴取し、次いで中村船長未亡人宅を訪問、弔意を表し、なお鉄道管理局内にて、労働組合の代表と、日夜健闘を続ける労働組合救難対策本部の人々と、懇談いたしました。以上が大体の訪問先であります。
それは、先ほど重盛委員の質問の中に、事故の真因というものは、やはり中村船長が殉職をされておりまして、どうして左かじを命令したかというその点が、これはおそらく海難審判所で審判されましても、この点はやはり不可解のままに過ぎはしないかという考えを私たちは持っておるんです。そこでまた大臣は、速度の点も確かに一つの誘因だということで、私たちもその通り考えております。
○三木国務大臣 今の關谷委員の質問に関連して、乗務員に行方不明が二人あった、中村船長の遺骸が発見をされたという報告を受けましたので、御報告しておきます。
それに対して、各船長ではございませんが、中村船長が、脅迫した、こういうことを申されて、地労委の公述書に書いておられますが、そのときの公述内容も一応雰囲気といたしまして、地労委の記録をごらんになつたらよくわかると思います。それから十一月十八日の協定書、それに対しての解釈は、——その間に抗議文あるいは決議文をつきつけられました。