2002-06-12 第154回国会 衆議院 国土交通委員会 第20号
よく話を聞いてみると、新幹線の八重洲中央口からホームまでは車いすでは行けないとの話でございました。新幹線に乗るためには、南の方の入り口に行かなければエレベーターがなく、ホームまで行けないといった話でございました。
よく話を聞いてみると、新幹線の八重洲中央口からホームまでは車いすでは行けないとの話でございました。新幹線に乗るためには、南の方の入り口に行かなければエレベーターがなく、ホームまで行けないといった話でございました。
現実に、三月二十四日、被害者支援都民センターがキャンペーンを東京駅八重洲中央口で行ったのをテレビあるいは新聞で御存じの方がいらっしゃるかと思いますが、やはりこういったキャンペーンをして、みんなに被害に遭ったときにすぐに思い出していただける、あるいはこういう組織があるんだということを知ってもらうための活動も必要だと思うんですね。
日本時間けさの十時、モスクワの午前四時に、ソ連・モスクワの大使館からは、私服を着たグループがロシア共和国政府建物中央口から入ろうとして、押し返された。ロシア共和国内部に私服を着た攻撃に気をつけるように警告が出されているといったようなことがございます。
しかしその際に、今まで四つ改札口があったのですが、それを中央口一つに集約して乗降客がすべてそこへ集中するようにしたわけですね。これだけで出改札要員を二十七名削減することができたのです。しかし、一日の乗降客二十七万、三十万と言われています。しかも、通勤の町ですから、朝夕のラッシュアワーのとき十数万の人たちが集中するわけですね。だから南武線、東海道線、私も二度ばかりその時間に視察に行きました。
その西の乗降客の多いところは中央口と統一するということが合理化計画の中にあるようですけれども、そういうことを考えてみるときに、せっかくの機会だから障害者対策をこの際計算の中に入れてほしい。特にいま言いましたトイレの問題。それから案内の人々が合理化されるという計画があるようです。
第三といたしましては、中央口改札と南口の改札を接続してほしいとの強い要望があります。現在進められておる工事でこのような点が十分取り入れられるのかどうか、この点どうでしょうか。簡単に答えてください。
国鉄の八重洲の中央口から地下へ入る階段が両方に出ているのです。一カ所から出ておるのですね。両方にエスカレーターがついている。そのエスカレーターは両方とも下り専門なんです。北口の方に行けば北口の方のエスカレーターも下り専門、南口へ行けば南口のエスカレーターも下り専門。上がるエスカレーターがないわけですよ。お年寄りも身体障害者の方もいられる。
それから、三番目といたしまして万国博、これが四十四年三月に発行いたしましたが、約一億四千万円という寄付金を配分いたしたわけでございますが、これは中央口の建築工事中の付帯工事と仕上げ工事という形で使っていただいたわけでございます。 それから札幌オリンピックでございますが、四十六年二月に発行いたしまして約一億八千万寄付をいたしました。
また同時に、池袋の中央口と南口を西武側で結ぶ通路、これを開設してほしいという要望が非常に強いのです。当局はその用意があるかどうか、最後にお尋ねいたします。
それに東京駅は元来中央部に貴賓室関係を、南口が乗車口、北口が降車口というふうに分離した形で設計をなされておりまして、建物自体の構造としましては、北口と中央口と南口が建物の壁で分離されておりまして、各口相互の連絡ができない構造となっております。
例を申し上げますと、たとえば昭和四十四年の四月二十七日ですが、朝の十時五十分ごろ都内の新宿駅の中央口の付近で、手下げかばんの中にコーラびん七本、そのほかファンタびんとか、そういうものにガソリンと硫酸を入れたものを持っておる、同時にくっついておりませんが、塩素酸カリを含ませた包帯を十三本持っておる中核派の学生を発見したわけですが、まさに三条二項のようなもので、くっつけたらば火炎びんになる、半製品で別々
この調査表と現場の写真を添えて出しているはずですが、これを見ますと、たとえば駒姫交通、駒姫タクシーといった駒姫系のタクシー会社のタクシーが、この午前四時三十分以後六時までの深夜に、大阪で十四台が客待ちあるいは路上仮眠、こういった形であっちこっちに、たとえば大阪駅の中央口あるいは地下鉄の駅、こういったところにいる。
私ども一行は、完成を目前に控えた北大阪急行電鉄に試乗し、万博中央口駅に到着、直ちに万博協会事務局にて観客の輸送対策、宿泊対策等について説明を聴取した後、モノレールで三百三十万平方メートルに及ぶ会場の外観を視察いたしました。
このほかに北側の中央口というのがございます。野球場に近い方の入口、この口の方にも数百人、そのころには集まっておりました。
こういう心理状態、おそらくその中には、場合によっては、最初に中央口から入った五十名の中の何人かがおるかもしれません。その場合にはそれが加害者であったかもしれない。現に人が死んでおるというにもかかわらず、なおかつ残ってサインを求めようというような心理状態は根本的に嘆かわしいことではないか。
ところがこっちの中央口の方は、ちょうど開場直後に、先ほど申し上げました市役所側の入口におりました三十名ばかりの若い者が北口の方に回ってきまして、しかもロープを張っておったところを飛びこえたり、くぐったり、警察官が三人これを阻止しておりますけれども、阻止しきれずに押されております。そこで従来から長く待っておった北口、中央口の方の連中が刺激されまして、かけ足状態になった。
ところが当日四時四十分ごろになりますと、電車通りに面しました入口前に約六百名くらいが集合し、引き続きそこに集合してくる状況でありましたので、現場の加賀町署の警備係長が、電車通り近くの入口を使用する場合におきましては、電車通りとの間に非常な混雑が起こることを懸念いたしまして、入口を中央口にした方がよろしいということで会社側と打ち合わせの結果、中央口と南口の二つに入口を定めまして、ここにはまだあまり大ぜいの
○参考人(櫻井志郎君) 第一回のは、先ほど総裁から申しましたように、いわゆるあら締め切りあるいは一時締め切りという言葉を使っておりますが、七月の二十三日にあら締め切りを完成いたしまして、二十六日未明、たしか午前一時ごろでありましたでしょうか、その状態のときには、仮締め切りの方は中央口でまだ十五メートル程度あいているわけでありまして、仮締め切りは締め切り段階には入っておらなかったわけでございます。
○坂本委員 そこでお伺いしますが、昭和二十四年九月当時は、新橋駅の混雑緩和のために、あそこの場所に中央口設置計画を立てていたんじゃなかったんですか、その点を承わりたい。
○坂本委員 それではその後二十六年の四月に中央口及び階段の必要はなくなったが、駅の表裏の通路は依然として必要であるので、それを設置された、その点は御記憶ありますか。
○白木参考人 ただいまの中央口、私の赴任したときの説明では、中央口の云々は聞いたように思います。私の赴任当時は何か設計が変ったように思っておるのですが、それ以前のことは私知りません。
昭和二十五年の二月に鉄友会が、いわゆる混雑緩和のために中央口をわれわれの資金で設置し、それを国鉄に寄付するから、一部高架下を貸してくれという条件で契約したものが、いつ、どこで今のような解釈に変ったか、ここが重要な問題点でありまして、通路の使用料を払えばいつでも閉鎖してもかまわないという新例を作ると、全国に又貸し問題を解決しようとする決算委員会は、非常に支障を来たしてくる。
ここにありますのは、社会党が集めた非常に重要な資料でありますが、新橋駅の混雑緩和をはかる措置として、同駅ホーム高架下にコンコース及び中央口設置の計画があったのを知った同社、いわゆる鉄友会ですが、その監査役三浦義男君が、昭和二十五年二月、中央品を設置して国鉄に寄付する交換条件として、高架下の一部使用を承認されたき旨の願書を出した。
それならばこれはどういうことをするかといえば、会社設立の経緯は、当時国鉄において新橋駅の混雑緩和をはかる措置として、当駅ホーム高架下にコンコース及び中央口設置の計画があることを知つた同社監査役の三浦義男、この人が鉄友会の代表となつて、昭和三十五年二月、中央口を設置して、国鉄に寄付をするという交換条件のもとに、高架下一部使用を承認されたき旨申し出た。
中央口にほんのわずかの出入品がございますが、あとは全然出入品がございません。それで一日三十六万人からの人の出入をさばいております。そこで今度あのちようど裏側にあります八重洲口にやはり通勤者の口の幅をまつすぐ二百メートルとりまして、その二百メートルは全部自由に出入ができる面積にしておるのでございます。それでまるでそこの感じが違うわけでございまして、特に自動車が問題でございます。