2017-11-21 第195回国会 参議院 本会議 第4号
この際、総理に、中世ヨーロッパの政治思想家ニッコロ・マキャベリの名言をお伝えしておきます。その大著「フィレンツェ史」の中で、マキャベリは次のように述べています。戦争は、誰かが望んだときに始まるが、誰かが望んだときに終わるものではない。 総理には、慎重な上にも慎重に、かつ思慮深い外交姿勢で職務に当たられることを切望します。決意のほどをお伺いいたします。 次に、内政について伺います。
この際、総理に、中世ヨーロッパの政治思想家ニッコロ・マキャベリの名言をお伝えしておきます。その大著「フィレンツェ史」の中で、マキャベリは次のように述べています。戦争は、誰かが望んだときに始まるが、誰かが望んだときに終わるものではない。 総理には、慎重な上にも慎重に、かつ思慮深い外交姿勢で職務に当たられることを切望します。決意のほどをお伺いいたします。 次に、内政について伺います。
例えば、歴史を振り返ってみますと、暗黒時代と言われた中世ヨーロッパが、その後、世界をまさに支配するような勢力になっていったのは、やはり産業革命という劇的な科学技術のイノベーションがあった、そのことによって長きにわたった低迷から、停滞から抜け出していった。やはり、科学技術の進歩とか科学技術が与える影響というのは、極めて社会に大きなインパクトを与えるんだと思います。
次に、生命保険でございますが、生命保険につきましては、その原型は中世ヨーロッパのギルド、同業者が集まって、それで、その仲間内で亡くなったときに備えてみんなでお金を基金しよう、そういうことから始まったということで、これはある種、共済組合的な色彩もあったのではないかと思われます。
そもそも学位は、中世ヨーロッパにおける大学制度の発足以来の沿革を有しておりまして、学術の中心として自律的に高度の教育研究を行う大学から、大学教育修了相当の知識、能力の証明として授与されるというものでございます。
大学という組織は、中世ヨーロッパで、真実を求めて議論するために集まった若者たちによって自然発生した。日本やドイツの大学など、19世紀以降、国力増強を目的に国家によって設立された大学においてすら、大学の使命は真実の追究と知識の蓄積と普及であり、それをまっとうするために大学という組織は自治を守り通してきた。
やはり正式の高等教育プロセスをちゃんと経たこと、そしてその中における倫理観とかあるいは道徳性、こういったものをちゃんと植え付けたものとして資格が得られるならば、それが正しくプロフェッションであるということで、このプロフェッションという言葉そのものの淵源をたどりますと、中世ヨーロッパにおけるいわゆる高等教育機関の教育プロセスとリンクした形で今日に至っているわけですから、今日、日本であるところの高等教育機関
○参考人(小林節君) 海外と言われても、今私が責任を持って言えますのはアメリカのことなんですけれども、ただ、ヨーロッパのしくじり、中世ヨーロッパのしくじりを経験してはじき出された人々がつくった国アメリカで、政教分離という原則がまさに磨き上げられてありますので、我々もそれを継受しておりますので、その点で申し上げますと、ただアメリカは判例法国ですから、最高裁の憲法判例が憲法改正と同等の力を持つという意味
められることが多うございまして、その意味でいいますと、御指摘のとおり、何か新しい中世というとこれからどんどん暗くなってきて閉塞的になるみたいな印象をお持ちになる方も多かろうと思いますけれども、これは私もそれほど詳しくはありませんけれども、最近の歴史学の動向からいいますと、余りに暗いイメージという中世はどちらかというと近代になってつくり上げられたイメージでありまして、かなり実証的な研究をすると、かつての中世ヨーロッパ
いま日本で通用している大学の自治や学問の自由というのが、あの中世ヨーロッパのころ、もしくはその前からのあの当時の社会事情の中で築き上げられた定義がなおどうも生き続けている。
そのことを何も中世ヨーロッパの歴史に戻ってお尋ねをしたり申し上げたりしようとは思いませんけれども、日本の大学の自治や学問の自由というのは、本当はその言葉そのものの陰に実態を隠して、中身が空洞化されているのではないのだろうかというふうに思うのですが、いかがでございますか。
というのは、中世ヨーロッパにおきまして教会が大学をつくるというふうなことで、教会の圧力と申しますか、意思というものがかなり強く大学の運営等に反映する。しかし、先ほど申し上げましたように、学問というのは、自由な雰囲気の中で学問の自由が保障されることによって初めて人類社会の進歩がある、そういうふうな考え方、それが学問の自由の基本になると思います。
一般民衆のために、俗語による読み書き算を教える簡単な学校は、中世ヨーロッパの諸都市に、十三世紀のはじめごろからあらわれ、わが国の江戸中期の都市およびその周辺には、それとおなじ性質の庶民の学校、すなわち寺子屋があらわれている。