2006-04-05 第164回国会 参議院 決算委員会 第5号
また、できましたときが西暦九世紀ぐらいだと思いますから、それ以後、十三世紀にはダッタン、いわゆるジンギスカンから攻められ、そしてナポレオンに十六世紀に攻められ、いわゆるアジアからも西からもいろんな形で領土を侵される等々の長い歴史を経てきた国でありますので、ロマノフ王朝の紋章が双頭のワシというのは多分両方を向くためという説があるぐらいの国であろうと思っておりますが。
また、できましたときが西暦九世紀ぐらいだと思いますから、それ以後、十三世紀にはダッタン、いわゆるジンギスカンから攻められ、そしてナポレオンに十六世紀に攻められ、いわゆるアジアからも西からもいろんな形で領土を侵される等々の長い歴史を経てきた国でありますので、ロマノフ王朝の紋章が双頭のワシというのは多分両方を向くためという説があるぐらいの国であろうと思っておりますが。
あえて言えば、明治の山県有朋は、自衛とは生命線と利益線があるということを言っておられますが、この発想は、ロシア・ロマノフ王朝以来のツァーリズムの北方脅威への対応であったということは事実でありますが、結局、明治四十三年の日韓併合であるとか、昭和七年の満州国建設とか、引き続く熱河作戦を招来したことは否定できません。
ロマノフ王朝が別の王朝になったのならどうということもなかったのでありますが、それは暴力主義による共産主義革命でございました。しかも、当時のコミンテルンは、日本の共産党に対して、当時は非常に小さいものでありましたが、皇室の廃止を指令したということを当局はつかんだわけであります。そうしますと、危機感は非常に大きくなったわけであります。
しかし、なぜロシア革命が起こったか、そしてそれがどのように波及したかということに日本は影響を受けましたが、ロシア革命が起こったということに関しては、日本は日露戦争に勝つことによってロマノフ王朝に打撃を与えたという意味では関係がありますが、それ以上の関係はありません。
第一次世界大戦の末期、一九一七年、世界に初めて共産主義国家が出現し、そして、それまでの間世界に大きな影響を及ぼしていたロシアのロマノフ王朝あるいはオーストリアのハプスブルク家等を初め、専制君主をいただく多くの王朝が消えていきました。
準備がなく用意がないから黒船に襲われ、あのときにもアメリカのハリス、下田条約あるいは神奈川条約、あるいは帝政ロシアの軍閥がぼっこわれ軍艦を持ってきて恫喝をやって、クリミアで敗戦するロマノフ王朝の崩壊を導いたあの冒険主義者が自分たちの帝国主義の手を足を伸ばそうとして、ついにロマノフ王朝を葬ってしまった。
時間が来たからやめますが、やはり一九四五年の二月十一日のヤルタ協定が、現在の日本の領土変更に対する起点であるということは忘れないように、その点を政府みずからが、二月七日などと言わないで、徳川幕府も崩れ、ロマノフ王朝も崩れてしまって、どこに責任を持っていったらいいかわからないような不始末な状態が、主体性のない外交の中から結果的には両方に生まれてきているんです。
ドイツ、ヨーロッパ各国との摩擦があってなかなか出られない、やはり黒海からダーダネルス海峡を経て地中海、インド洋へ、もう一つは日本海へ、これが下田条約においてでもアメリカより荒っぽい形において、ロシアが千島を占領したり、つまらぬ黒船を持ってきておどかして、アメリカ以上に手荒い方法で、トルコで破れているということはわかっていながらも、野心家たちの二面作戦で、ついに英仏連合軍において破れていったのがロマノフ王朝
平和条約というものが締結できるかどうか、そういうことを私はこの機会には考えるべきであって、日本における領土問題に対しても、サンフランシスコの会議で吉田さんがこう言ったからとか、あるいはソ連が不可侵条約を無視して進駐したからとか、北方領土の問題は、自民党の学なき、一つの露呈している貧弱さ、下田条約を原点として北方領土デーをつくるというようなばかげたやり方、あんな徳川幕府が崩壊する腰抜け外交の時代、ロマノフ王朝
而して赤色革命は文相的感覚、自由党的感覚がこれを誘発するものであることになぜ気付かないのであろうか、ロマノフ王朝の時代、ルイ王朝の時代、幕末の時代すべて暴政であり、自由と人権の束縛であり、奴隷政治であつたからであります。真に赤色革命を恐れるならば、先ず政府は独占資本の金力による政治をやめなければならない。
前大戦末期行われましたヤルタ会談においてスターリン首相に大譲歩したルーズヴエルト大統領のあやまちは、遂にアメリカに対してはその極東政策に大なる禍根を残し、ソ連に対しましては、ロマノフ王朝以来の多年の宿望でありました極東侵略計画の実現に絶好の機会を与えてしまつたのであります。
なおまたロマノフ王朝の奴隷政治がソ連の革命となつたことも考えなければならないのであります。ルイ王朝の革命は、国民の自由を束縛いたしたことから起つておるのであります。世界の目はどちらを笑つておるかということを考えなければならぬのであります。自由がたつとばれ、人権が確保された時代に、赤色革命は起つた歴史はないのであります。