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9件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2018-06-04 第196回国会 参議院 北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 第3号

北朝鮮による拉致問題を抱える国・地域につきましては、二〇一四年に公表されました北朝鮮における人権に関する国連調査委員会COIと呼ばれていますけれども、その報告書におきましては、韓国人五百十六名の失踪、あるいはレバノン人四名、タイ人一名、中国人二名、マレーシア人四名、シンガポール人一名、ルーマニア人一名、フランス人三名、イタリア人三名及びオランダ人二名などの拉致又は強制失踪事案が、疑惑のある、疑いのある

大鷹正人

2014-05-09 第186回国会 衆議院 北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 第3号

岸田国務大臣 世界各国拉致被害者の数ですが、先般、二月に公表されました、北朝鮮における人権に関する国連調査委員会COI報告書におきましては、日本人以外の拉致につきまして、韓国人五百十六名の失踪、そしてレバノン人四名、タイ人一名、中国人二名、マレーシア人四名、シンガポール人一名、そしてルーマニア人一名及びフランス人三名等の拉致または強制失踪事案が、疑惑があるケースも含めて記述されていると承知

岸田文雄

2005-11-24 第163回国会 参議院 北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 閉会後第1号

アノーチェさんの件につきましては、私は、ジェンキンスさんの書かれた「告白」という本の中にアノーチェさんのこと、そしてまたあるいはルーマニア人の方、そしてまたレバノン人の奥様の四名、曽我ひとみさんを入れて四名の方々についての言及があるわけでございまして、その方々がもしかしたら他の、その御本人たちは他の日本の拉致被害者のことについて知っているかもしれないということは十分にあり得ると、こう思っております。

安倍晋三

1990-04-18 第118回国会 衆議院 外務委員会 第3号

それから、もともとモルダビァにおきましても、これはルーマニア人と同じといいますか、ルーマニア人が主たる住民でございますし、ルーマニアとの合併を要求する声も強いわけでございます。それからさらに、ウクライナ、白ロシアという、スラブ系の中でもロシア民族とは異にする独自の伝統を持つ民族独立化への動きもござい ます。  

都甲岳洋

1970-04-23 第63回国会 衆議院 外務委員会 第10号

山崎説明員 いま申し上げましたように、これはわがほうにとって非常に一方的に有利な規定という意味で入れてあるわけでございまして、一般的に申せば、もちろんブルガリア人ルーマニア人が来たときにこういうものが適用あるとはほとんど考えられないわけでございますが、強制宿営については、どういう形であれあり得るであろうと思っておるわけでございます。

山崎敏夫

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

その他にハンガリア人ルーマニア人、フインランド人イタリア人ユーゴスラビア人、それからポーランド人というようなものがおり、日本人は約二十名くらい、武部長官であるとか、村上中将谷塚中将というような方であります。その分所から約二キロ離れた所に、一つ同じラーゲル番号の第二分所がありました。これには日本人が約一千五百名、ほぼ同数のドイツ人捕虜、これが混合して住んでおつたようであります。

池谷半二郎

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

皆さんの一緒にお帰りになりました元樺太長官大津敏男氏が、最近新聞に投書したところによりますと、日本人捕虜は元将校の人達であつても、向うで全くの裸の人間としては尊敬に値えしないというような極めて、何と言いますか、信念に欠けたような態度であつたということを書かれておるのでありますが、その点私は誠に日本人として残念に思うのでありますが、特にあなたはドイツ人千数百人、又ハンガリー人ルーマニア人捕虜達

北條秀一

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

○証人(池谷半二郎君) ちよつと、多数のドイツ人ということはお問いの意味が分りませんが、私のおりました七〇二七の第一分所におけるドイツ人、その数は概ね千名、若しくは千百名、日本人が約二十名、ハンガリー捕虜が二百数十名、ルーマニア人百数十名、チェコその他が一、二名若しくは数名というような数字に記憶しております。

池谷半二郎

1950-04-05 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第19号

九十九収容所というのは、大きなカラカンダ全体の名称ですが、その中に大体千人くらいを単位として、日本人ドイツ人も、それからルーマニア人分所としていたわけです。日本人収容所の十ぐらいのうち、五つくらいは炭鉱、五つくらいは地上建築、それから雑役に従事しておるわけです。私が一九四九年二月までいましたのは、地上建築の方であります。

菅季治

1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

そこはドイツ人を主といたしまして、オーストリア人ハンガリア人チェッコスロバキア人ルーマニア人と、各国の人がおりまして、正しく国際ラーゲルの観を呈しておりますと共に、そのラーゲルの一部を使用いたしまして、全ソ連地域におりまするドイツ人から選抜いたしまして、ソ側の直接なる政治教育が五ヶ月ごとに繰返し繰返し教育が行われておりました。私はそこのラーゲルに昨年の九月二十一日までおりました。

種村佐孝

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