2019-03-15 第198回国会 衆議院 文部科学委員会 第3号
イギリスでは、政治学という切り口ではなくて社会科学という切り口の中で、いわゆる一般教養的なところで、ポリティカルアイデアというような表現で、ルソーだとかロックだとかホッブスだとか、そういう名前が出てきて、その基礎的な勉強をさせる。
イギリスでは、政治学という切り口ではなくて社会科学という切り口の中で、いわゆる一般教養的なところで、ポリティカルアイデアというような表現で、ルソーだとかロックだとかホッブスだとか、そういう名前が出てきて、その基礎的な勉強をさせる。
それから、ルソーという、私、教育学部なので、ルソーの「エミール」を読まされたのが本当は始まりなんですけれども、「エミール」、教育論なんですが、この人は家庭教師とかいろいろ書かれていて、教育学部では教科書なんです、「エミール」というのは。
○吉川沙織君(続) ルソーのように、国民の総意が単一不可分であるとすれば、これを代表すべき議会も単一の議院であるべきだとする一院制の主張が生まれますが、今日でもなお多くの国において二院制が採用されています。二院制の存在意義の論拠は、代表の多様性の確保、議会における慎重審議、二院の間における相互抑制、補完にあると考えます。
その著書、「哲学ってなんだ」で書かれているルソーの社会契約説の解説で、御本人は異端と言われていると言っておられるのですが、私は三十数年に及ぶ公務員としての経験から竹田説が完全に正しいと考えています。
フランスの哲学者ルソーが、社会契約論の中で、法の持つ硬直性は国家を滅ぼしかねないと言いましたが、憲法改正は、ドイツは六十回、米国は十八回、フランスは二十四回等々、各国は法の持つ硬直がないようにしてきましたが、日本は憲法改正がなかなか困難で時間が掛かると。
ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった近代立憲主義の基礎を築いた政治思想家たちは、いずれも、この問題に回答しようとした人たちであります。 近代立憲主義は、そうした社会生活の基本的な枠組みといたしまして、公と私とを区分することを提案します。 私の領域におきましては、各自がそれぞれ、自分が正しいと思う世界観に従って生きる自由が保障されます。志を同じくする仲間や家族と生きる自由も保障されます。
神社は、もともと、ルソーの社会契約論を中江兆民が訳すときに、ソサエティーという言葉がなかなか訳せないということで、神社の社で会う、社で会うというところから、日本のコミュニティー、ソサエティーというのはできているわけでありまして、こういった、地域を中心に省庁のネットワークをしっかりとつくっていきたいと思っております。
かつて、中江兆民がルソーの民約論を訳すときに、ソサエティーという言葉が日本になくて訳せなかったんですね。それで、神社で会う、社で会うというところから日本の社会という言葉は来ています。小さなコミュニティー、これが日本のコミュニティーなんですね。グローバルな視点を持ちつつ地域のコミュニティーを大切にする、こういったことも重要だと考えております。
つまり、西洋で生まれてきた、これたしかルソーか何かの思想の中にあった話だと思うんですけれども、アメリカの独立宣言の中にもこういう理念があったというふうに思いますが、そういうものと、そういうものの中に、言うなれば本来人間が持っておる自然権的なものというものがここに書いてある自民党の中とどういう違いがあるのかというのはちょっと私もよく理解できていませんが、そもそも人間たるものが人間として生まれてきた限りには
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 一般にいわゆる天賦人権説とは、基本的人権は国家から与えられるものではなく、人が生まれながらにして持つ人間の本来享有すべき天賦の権利であるという自然法的な考え方でもありまして、この思想はルソーなどの十八世紀の啓蒙思想家により主張されていたところでございます。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言、さらには日本国憲法に表れていると、このように言われております。
そして、やはり、そういう主張がありましたルソーであるとかロックの時代から……(辻元委員「違う。我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであるべきだという、それはどういうことか」と呼ぶ)いやいや、何百年かたちまして、その間に、いろいろな、先ほど申し上げましたように、大体共通のカタログというものがかなりでき上がってきた。それが、やはり日本人として考えるところもあるかもしれません。
ルソーは、社会契約論で、熟議主義と個人の意見の集合知について、政治は国と国民の意見が一体化した民主主義でなければならないと述べていますが、情報化の進展により、インターネットでのツイッターのつぶやきなど、国民の意見は聞こえやすくなっており、現代社会での意思決定は、国会の熟慮だけではなく、個人の意見、集合知を重視することも大事だと考えます。
多数決で決をとって、ルソーの言うところの全体意思であるというところを見ても、やはり過半数というのには妥当性があるのではないかと私は思っております。
実際にやっておりますのは、例えば今週でしたら、ルソーは一体人間の本源について何を考えているかであるとか、あるいはロールズ、サンデルというアメリカの政治哲学者は一体何を正義として考えているかといったようなことを考えておりますので、言わばこういう場では大変、本当に隔靴掻痒の非常に迂遠な、社会科学というものは余り意味がないのではないかというふうなことをやっている人間かもしれません。
特にこの夏の企画展、オルセー美術館展では、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルソー、本当に多くのすばらしい作品をまた多くの方々が堪能したという。この入場者数も過去最大の七十八万人を記録したそうでございます。私どもがちょうど伺ったときは、実は企画展を準備中のときでございました。
このフランス革命の二十五年前にイタリアのベッカリーアという学者が「犯罪と刑罰」という著作を発表して、これは、いわゆるルソーの社会契約論やまたモンテスキューの権力分立論、三権分立論を引き継いで、罪刑法定主義を確立するに当たって大きな役割を果たした方だというふうに思います。 今、私の手元に岩波文庫の「犯罪と刑罰」、ベッカリーアを持ってまいりました。
ただ、先日の本会議でも質問をさせていただいたんですけれども、それこそジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーの時代から、また今三権分立という話ですから、それこそモンテスキューまでひもといて、また改めていろいろ議論をしていかなくちゃいけないかなと思ったんですが。
鳩山政権においては、ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーから続く憲法の理念の下にある税の概念を根本から変えるというのでしょうか。聞くところによると、今回の増税において議論がしっかりなされているようには思えないのですが、どのような経緯で、また改めてどのような理由で決定されたのでしょうか。総理にお尋ねいたします。
まず、あらゆる技術の中で、第一の、そして最も尊敬に値するものは農業であると、これはルソーの言った言葉でございます。また、農村を大事にしない社会は、人間や生命を粗末にする野蛮な社会となり、すべての面で行き詰まる、そういう警鐘を鳴らし続けてきた識者もいらっしゃいます。
国民主権とは何かについていろいろ議論がありますが、一番明確な定義を下しているのがルソーであると思います。そこでルソーは何を言ったかといいますと、主権の究極は国民が立法する権限を持っていることということがルソーの主権の定義であります。
この点、国民投票による憲法改正決定の方式は、実はフランス革命以来論ぜられてきた人民主権説、ジャン・ジャック・ルソーなんかに思想的な根拠がありますが、それの人民主権説の思想的、政治的基盤の上に展開すると言うことができます。その背景としては、普通選挙制が実施される、あるいは下院の上院に対する優位、あるいは第一次大戦後は直接民主制が諸国憲法に導入されるというような背景があります。