この平塚化学工場、平塚工場跡地というのは、環境省の方で御努力いただいて提出していただいた七二年の調査資料、結果では、相模海軍工廠化学実験部、平塚市、この記録ですと、〇・四トンのイペリット、ルイサイトが十・二トン、鉄がめ二十ケ、ドラム缶三十缶、これだけ保有されていたというのがこの平塚工場跡地ですね。そこで今回こういう事故が起こったわけですね。
それから、これは一九七四年の十月に松花江でしゅんせつ作業中に引き揚げてしまって、どうもイペリットとルイサイトと混合した液に触れてしまった、そしてこのようになったようなんですけれども、足の指が全部溶けてしまうような状態。この方は、結局は顔にも当たり、失明をして亡くなった肖慶武さんという方なんですけれども、こういう被害が起きている。
この遺棄化学兵器、広島県、瀬戸内海に浮かぶ大久野島というところで旧陸軍が製造した致死性のイペリット、ルイサイトというびらん性ガス、それからジフェニルシアンアルシン、一般には赤筒、赤筒と呼ばれておりますが、くしゃみ性ガス、これが大久野島で大量につくられまして、それが中国本土に運ばれて、実際に実戦に使われたというふうに中国側は言っております。
外務省がハルバレイで前回調査した中で、御承知のように、きい弾と言われた砲弾に穴をあけてみるとマスタード、別名イペリットですが、これとルイサイトの混合剤が確認されたという報告がなされておりますけれども、これはまさにびらん性の毒ガスで致死性の毒ガスです。これが事実上存在している。
それからルイサイトとか現在の毒ガスをすべて禁止する、化学兵器を全部禁止するという禁止例の中の一つに入っております。 こういう内容を全部見てみますと、結局くしゃみだとか嘔吐剤というのがあか筒、あか弾、それからきい弾、きい剤なんと言われるのがびらん性の致死性毒ガスです。これはかつてはイペリットと言われていましたけれども、現在は精製マスタードです。
新聞の報道によりまして、旧日本軍が中国に残留した化学兵器の調査に行かれたということはもう大臣御承知のとおりですが、この調査の中で、いろいろ調査した結果、ハルバレイにおいて旧日本軍がきい弾と呼んでいたびらん性のマスタード、ルイサイト、混合剤の砲弾やくしゃみ弾も確認されたというふうに既に調査に行って発見しているんです。ですから、この問題は現在でも残っているんです。現に向こうに運び込まれている。
中国が言っております日本が遺棄したという化学兵器、マスタードガス、ルイサイト、ホスゲン砲弾等々いろいろあるわけでございまして、これらはこの条約に言う化学兵器であるというふうに認識しております。
○梶原敬義君 ちょっとどういう内容かというのを少し読んでみますと、造兵厰の製造所で完成した毒ガス弾の検査職員だった各務亨さん七十六歳、これは小倉南区の人ですが、と、イペリット、ルイサイト弾充てん分隊長だった山口操さん八十五歳、これも小倉の方ですが、「「漁場や旅客船航路にもなっている沿岸海域で、強烈な毒性のガス弾が放置されたままだと、将来事故が起きる」と思い、証言を決意した。」
実は、これもあるところからお話を聞いたのでありますが、旧陸軍が広島県の大久野島というところに、昭和二年から終戦までの間、旧陸軍東京第二造兵廠忠海製造所が設置されまして、イペリットとかルイサイト、あるいは青酸、ホスゲン等の毒ガスが製造されていたのでありますが、これら毒ガスの製造工場で働いていた方々は、毒ガスの汚染によりまして障害を受け、戦後四十年を経た今におきましても、ある調査では数千人と言われておりますが
○立木洋君 そうすると、この化学兵器で挙げている例示の塩素だとかホスゲン、ヂホスゲン、青酸、塩化シアン、マスタード、窒素マスタード、ルイサイト、タブンやサリンや、こういうものが輸出されたときにはぴしっとチェックされていますか。
そこでお尋ねをいたすわけですが、旧陸軍が広島県の竹原市に所属する大久野島というところに、昭和二年から第二次世界大戦が終戦に至るまでの間、旧日本陸軍東京第二造兵廠忠海製造所が設置されて、ここでイペリット、ルイサイト、青酸ホスゲン等猛毒かつ微量で致死的な毒ガスを初めとして、催涙ガスあるいはくしゃみガス、各種の信号筒等が製造されておったわけであります。
しかも、つくっておったものは、びらん性の毒ガスで有名な、ドイツ軍が一番最初に発明いたしましたイペリット、さらにルイサイト、ホスゲンあるいは青酸ガス、砒素ガス、塩素ガス、催涙ガス、そういうものを多量につくっておったわけであります。 そこで、そういう不完全な防毒対策のためにずいぶん被害を受けられまして、今日まですでに死亡されました方は約八百名になんなんとしております。
ここではイペリットなりルイサイト、青酸あるいはホスゲン、そういった致死性の強い毒ガス、そのほかに催涙、くしゃみガス等が製造されていたわけであります。このほかに火薬、爆薬の製造及びガス弾の製造も行っておったわけでありまして、そういういろいろな製造の設備も当然そこにあったわけで、またその毒ガスや火薬弾の原料となった多量の薬品も貯蔵されていたわけです。
化学戦学生として、ガス、細菌、火炎放射を習ったものでありますが、終戦の国がつぶれるかつぶれぬかという境に江田島にはイペリット、ルイサイト、ホスゲン、Gホスゲン等の猛毒な毒ガスがいっぱいございました。これを使わなかった、使えなかった。防御だといっても、これを使うと敵をやる前に味方の国民がやられるわけでありますから、旧憲法でさえも使えなかった。これだけ申し上げておきます。
これは毒ガス、イペリットとかルイサイトとか、そういうものをつくっておったようでございますけれども、こういった毒ガスの輸送とか保管の業務に、どの程度、関与しておられたのかどうか、いろいろ事実関係について、まだ明らかにしなければいかぬ点もあるかと思います。また、そういうものに従事したために本当に現在、何らかの障害を持っておられるのか、影響が残っておるのか、そういう点もあるかと思うのでございます。
「この前の大戦の末期に、危急存亡のときに、江田島にイペリット、ルイサイト、ホスゲン、こういう毒ガスがございました。これを使うか使わぬかという議論があったわけでありますが、そういう際にさえも日本は使わなかったわけでありまして、」云々なんですが、実は江田島というのは残念ながら少し場所が違っておりまして、正確には大久野島であるであろうと私は考えるのです。
そして、がんとか慢性気管支炎、こういう病気はイペリットやルイサイトの製造従業員に多い。そして、結論的には、この毒ガス障害というものは一時に体に付着したり吸収しても生じるが、多くは本人が気づかない程度の超微量でも長期にわたると出てくる。
それから毒ガスのことについては化学実験部第二課に属しているこの実験部では、確かにイペリット、ルイサイト系のガス製造、また、こうしたガスを実験的に使用していたということが明らかになった、こういうふうに受け取ってよろしゅうございますね。 それからこの小川さんはこの第二課に属していた、こういうふうに調査ができた、この事実は確かであるということでございますね。
とのことについて簡単に申し上げますと、相模海軍工廠化学実験部第二課に、昭和十七年十一月に豊川海軍工廠より転用して配属され、その仕事はイペリット、ルイサイト、ホスゲンの合成実験、毒ガスの海中における鉄板塗装の強度実験、これは真鶴湾でやっておりました。毒ガス解毒の研究実験、こういうような仕事をやっておりました。それで昭和十七年十一月より、この化学兵器の製造実験作業に従事していたわけでございます。
それで、きょうはいわゆる広島県大久野島において、まあ第二次世界大戦の当時毒ガスが生産をされておりまして、まあイペリットとかルイサイト、そういうまあ毒ガスが生産されておったことは御存じのとおりでありますが、その被害者等の問題についてきょうは二、三質問をしたい。