2017-02-15 第193回国会 衆議院 財務金融委員会 第2号
ラッファー曲線といって、減税すれば税収が上がるんだといって、それは今となっては、あれはブードゥー曲線だといっていわば信仰みたいなもので、実際には減税したら大幅な赤字になって、結局、その後のブッシュ大統領も、ブッシュ大統領は、リード・マイ・リップス、増税しないと言ったのにレーガン大統領のレーガノミクスの負の遺産のために増税してうそつきだとなって、大統領選挙に負けちゃった。
ラッファー曲線といって、減税すれば税収が上がるんだといって、それは今となっては、あれはブードゥー曲線だといっていわば信仰みたいなもので、実際には減税したら大幅な赤字になって、結局、その後のブッシュ大統領も、ブッシュ大統領は、リード・マイ・リップス、増税しないと言ったのにレーガン大統領のレーガノミクスの負の遺産のために増税してうそつきだとなって、大統領選挙に負けちゃった。
これは多少アメリカ的で恐縮なんですが、もし本当に小さな政府を志向する人であれば、アメリカでブッシュ前大統領がリード・マイ・リップスと言って選挙に負けたわけですが、選挙に負けたことはともかく、言わないけれども私の唇を見なさい、税は絶対に上げませんよという人があらわれてもいいはずです。それは別に消費税とか所得税に限らず、これから税は一切上げないという議論があってもおかしくないですね。
ドイツの哲学者リップスは、「人はでたらめに婦人の能力を否定せずに、確実なる経験にこれを決定させる必要がある。そのためには、女性にその力を試し、その力を発展すべき機会と権利とを与えなければならない。」と言っております。こうした考え方は、昭和生まれの年代が八割を占めてきた日本でも徐々に定着しつつあります。 一方、国際的には本年は国連婦人の十年の最終年に当たります。
○政府委員(中川融君) その間に入った人物というのはアメリカ人のリップスという人でありますが、これはその中に入ったと申しますか、タイ側が自分の国の法律顧問として、経済顧問として雇いまして、そうしてタイ側の首席代表でありますワン・ワイ外相が連れてきまして、そして交渉に当たらしたわけでございます。したがって、日本から見ますれば正当な交渉相手であったわけでございます。
人の名前をあげたいのですけれども、これはなかなか重大な問題であるし、故人になっている人もあるので、そういうことは引用しないことにしますが、その人が直接タイ側に——サージ・リップスであるかだれか知りませんが、仲介に立った者あるいは向こうの政府の人に、第三者を通じて、そういう意味のことを吹き込んだのではないか。
「戦後日本が米軍に占領されていた当時金塊引渡に当った、サージ・リップス氏の功績を讃えるために」云々となっている。サージ・リップスは金塊引渡しをやったのですよ。あなた知っているでしょう、しょっちゅう会ったんだから。お答えなさい。
○中川政府委員 私はリップスと会いましたけれども、そういう話を聞いたことはないのでございます。しかし、タイ側として、タイの内部におきまして、リップスが前の金塊の引渡し、つまり、日本の占領中の金塊引渡しに関係があったということは新聞記事に載っていたことがあるのでございまして、私もその点は読んだことがございます。
○中川政府委員 私がリップスに会いましたのは昭和二十九年の初め、リップスがおそらく第二回くらいに来たときじゃないかと思いますが、そのときに会いまして、それから、三十年の協定を結ぶ間に二回くらいリップスは来たと思います。それから三十一年の初めにリップスが来たとき、このときまで、従いまして、三十一年といっても初めのころまでで、それ以後リップスは参りません。
もう一つ、これは一緒にお答えいただきたいと思いますが、大へんタイ国のことにお詳しいようでありますから、田口さん、あるいは宇敷さんにもお尋ねしてみたいと思いますが、日本の今回の新協定になりまする前に、タイの米人顧問でサージ・リップス氏あるいはオーク氏というお二人が東京においでになっていろいろ折衝した経過があるのであります。
それから、二番目にお尋ねのありました、リップスというアメリカ人の法律顧問が、三十年協定を日本と結ぶころ、タイの外務大臣の顧問にいたじゃないか、それについて現地の新聞その他でいろんなことがあったか、それを記憶しているか、こういうお尋ねでございましたのですが、私が参りましたのは昭和三十三年で、リップスという人はもうおりませんでしたし、何か、そう言えば、新聞で、リップスが所得税を納めていないというケースがあって
ナラティップ外相と、そのときはリップスという顧問もついてきております。この人たちは九十六億円は資本財及び役務の無償供与であるということを主張いたしました。わが方の、本件経済協力は投資及びクレジットの形式で行なわれるものであるから償還を前提とするものであるという立場と対立いたしまして、結局意見の一致を見ないで、翌年の一月終わりに帰国いたした。こういうことでございます。
○中川政府委員 昭和三十年の暮れから翌年の一月にかけまして、いわゆる実施細目の交渉をやろうということで、ワン・ワイ外相がリップス顧問を連れて来たわけであります。それで、暮れから始まりまして、一月の十日ぐらいまでかかりましたか、実施細目の取りきめをしたわけでありますが、これは別に会議体の交渉ではないのであります。
○池田国務大臣 それは、外務大臣がお答えしたように、一九五五年十二月に、調印をした外務大臣とリップスという顧問が調印後三カ月か四カ月目に来まして、あれをわれわれはもらうものと心得ておりました、こう来たわけなんです。
そうして二十九年の九月に、問題の米人顧問のサージ・リップスとオーク、この二人が東京に送り込まれて、今度は千三百五十億円の要求が突きつけられてきたのであります。
○横路委員 これは外務大臣御承知でございますが、この前辻原委員から御指摘がございました、アメリカ人で弁護士のリップスというのが五十四億円の二%の一億八百万円の手数料を取って、アメリカで支払いをされた。タイ国内で支払いがされなかったために、税金その他がかからなかったので、大へんな問題になったという点は、御承知ですか、どうですか。
○中川政府委員 事務的な話はリップスと私としたことが非常に多かったのでございすます。
○辻原委員 その際にリップスは同席をいたしましたか。
○中川政府委員 当時、リップスは、単独で参ったこともございますし、ワン・ワイ外相についてきたこともあるのでございます。単独で参りました際は、当時アジア局長でありました私がリップスと折衝いたしました。ワン・ワイ外相についてきましたときには、重光外相、一萬田蔵相等とワン・ワイ外相が折衝したのでありまして、その補佐としてリップスは仕事をしたわけでございます。