2004-02-09 第159回国会 参議院 イラク人道復興支援活動等及び武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会 第5号
また、私、ポツダム市を訪問したことがあるわけでございますが、第二次大戦終了時のポツダム会談は、最初は保守党の、イギリスはチャーチル、出たわけでございますが、その後は政権交代によって労働党のアトリーが出て、しかしイギリスの立場、主張は変わらなかったということにも見られるとおりでございます。
また、私、ポツダム市を訪問したことがあるわけでございますが、第二次大戦終了時のポツダム会談は、最初は保守党の、イギリスはチャーチル、出たわけでございますが、その後は政権交代によって労働党のアトリーが出て、しかしイギリスの立場、主張は変わらなかったということにも見られるとおりでございます。
九月八日には、ベルリン近郊にあるポツダムに行き、英、米、ソ連によるポツダム会談会議場となったツェツィリエンホーフ宮殿を視察しました。ここで協議が行われ、日本の運命が大きく変わり、また現在の日本国憲法が制定されることに至ったことを思うと、非常に感慨深いものがありました。 同日午後、スペインに移動し、日曜日を挟んで翌々日の十日、スペインの憲法事情の調査を行いました。
一九八三年三月でございますけれども、米政府が、トルーマン元大統領が一九四五年七月のポツダム会談に際しまして、私もポツダムには参りましたけれども、夫人にあてたという手紙を公表しているわけですね。ニューヨーク・タイムズによりますと、その手紙は、「自分がここに来た目的を果たした。スターリンは何の付帯条件もなしに八月十五日に参戦する。
○川崎委員 そういたしますと、戦後の北方領土問題というものについてのステータスというのは、ヤルタ秘密会談におけるアメリカ側の一つの提案、そしてそれが対日の降伏文書、ポツダム宣言になってくるわけでありますが、ポツダム会談におけるトルーマン大統領の発言の意図、そういうものがそこに明確になってくるわけですね。
○渡部(行)委員 こればかりもやっておられませんが、しかし、どうもすっきりしない答弁で困っているわけですが、大体いまの憲法はアメリカから指示されたと言うけれども、すでにその前に、日本をどういう国にするかというのは、ヤルタ会談やポツダム会談で連合軍の中で話がされておると私は思うのですよ。
外務大臣も御承知のように、国際条約の理念というものは何もいま新しいものではありませんが、ベルサイユ会議以後ポツダム会談あるいはその後の国際外交の面でもあらわれておりますように、他国の領土を戦争に勝ったからといって、戦時中に締結した軍事謀略協定によって、それを押し通そうというような形は非道な行為であって、平和条約の基本的理念というものは、次の平和を保障し得べき条件を具備して平和条約を結ぶという前向きの
私が拾い上げてみますと、中国とは講和条約を結んだ当の相手国——カイロ会談であろうとテヘラン会談であろうとポツダム会談であろうと、蒋介石の中国との間に結ばれたんだ。
この会談はポツダム会談以降のことでございまして、非常に画期的なことであると思うのでございますが、東西の緊張の緩和に対しまして、多大の貢献をいたすであろうということは世界全体が認めておるところでございます。従って世界は、この会議を注視いたしまして、その成果に多大の期待をかけておるわけでございます。この会議におきまして、東洋の問題は直接議題とはなっておりません。