1971-04-20 第65回国会 参議院 社会労働委員会 第10号
昭和四十二年度以降特に努力を重ねておりまして、フィリピン、マリアナ諸島、東部ニューギニア、北ボルネオ等につきまして実施はすでにいたしてきたのでございます。 それから本年度あるいは今後につきましては、先ほど小柳先生の御質問に対しましてお答え申し上げたとおりでございます。
昭和四十二年度以降特に努力を重ねておりまして、フィリピン、マリアナ諸島、東部ニューギニア、北ボルネオ等につきまして実施はすでにいたしてきたのでございます。 それから本年度あるいは今後につきましては、先ほど小柳先生の御質問に対しましてお答え申し上げたとおりでございます。
○佐原政府委員 先ほども申しましたように、少なくとも台湾とか香港とか、そこへ行く場合の通信士の仕事と、近海の全域まで広がった場合の、ボルネオ等の島へ行って木材を積み取る場合の通信士の仕事と、その質、量ともにほとんど差はない、距離の違いだけである、こういうふうにわれわれは考えておりますので、この中間的な区域を定めて、その資格の効力の範囲をきめるということは、あまり合理性はないのではないかというふうにわれわれは
そしてボルネオ等では、商社が山の木を切る、いわゆるラワン材等を切るために、サルの一種でオランウータンという動物が木が少なくなったために里山におりてきて、そして町を荒らし植物を荒らすということでたいへん問題になっている。いわば、商社が南方に行ってどんどんラワン材のいいものを片っ端から切る。そこで、緑の侵略といって騒ぎ出したために、今度は通産ぺースでこれに植林しようというのです。
そのほかに物理探鉱、セラム、ボルネオ等の海外関係というようなもので七百人ぐらいも、やはり離職せずに石油資源の総合的な積極的な、縮小再生産でない、開発で処理できるというようなことも言っているそうですが、会社はまだなかなかそれに応じないということですが、私はやはりそういう縮小再生産でなしに、まあこういう鉱山会社は特殊な技術者ですから、それが生かせるような形でやはりやることが必要じゃないか。
そこに北ボルネオ等を加えていくというような構想は、これはそこの地域における経済の必然から生まれてきておるものと考えます。従って、われわれは、それぞれのアジアの新興の意気に燃える諸国が、多くの問題を解決せんと要望しておる。また、多くの欲求を持っておる。その欲求を、われわれはいかにしてこれを満たす立場がとれるかということを、それぞれの国について深く考えて努力していく。
ただ、今のところこれをはっきり計画に入れ、移民の長期年度計画等に公表する段階に至りませんのは、一例をとりましてボルネオ等のごときも北ボルネオに移民をやるという計画をこちらが正式に発表いたしますると、インドネシアでは再び日本人が組織的に、集団的に進出をして来て、われわれを脅威するのではなかろうかというような、いろんな反対、阻止等の声も出て参りますので、その点をよくわれわれ自身も戦前の移民と違って、決して
たとえば近隣東南アジア地域に移民をいたすことにいたしましても、ボルネオ等に移民するという話をしただけでも、インドネシアあたりでは日本が再び何か集団を作って日本帝国が進出するのではなかろうかという意見が非常に強いのでありまして、かつての満州に対する移民とは根本的に頭を変えていかなければならぬと考えるところでございます。
○園田政府委員 先般答弁申し上げましたのは、ただいま考えておりますところは、カンボジア、ビルマ、インドネシア及び将来におきましては北ボルネオ等を考えておるわけでございます。
○吉田(賢)委員 そうなつて来ますと、またさかのぼつて聞かなければならぬのですが、内地に送付、送金されておる、おらぬにかかわらず支払うということになり、それからたとえば別表によりますると、華中及び華南は、円は一円に対して四百三十二円、マライ及びビルマは一円に対して四百三十二円、ボルネオ等の東印度諸島は六円、華北は百円等々、大分率が大きくなつておるわけでありますが、そういたしますと現実に政府は送金を受
○近藤(止)政府委員 実はイラン問題というのは、ポンド地域からの輸入に影響を與えた一つの間接的な原因でもございますが、同時に南方地域におきまする油田の開発というような問題が遅れておるわけでございまして、こういつた関係を極力促進いたしまして、たとえばボルネオ等の石油を、できるだけこちらに持つて来るというような段取りによりまして、極力ドル輸入を減してポンド輸入の方に切りかえて行く、それからもう一つは原油
今を去る六年前の八月、日本の無條件降伏に端を発するポツダム宣言の行使により、他の地域と同様、ラバウル、ニユギーニア、モロタイ、アンボン、ボルネオ等の濠軍占領地域においても、戰犯という忌わしい名前が生れて参りました。昭和二十年九月から続々收容を開始された戰犯容疑者は、やがて同年十二月から次々と各地で開廷された裁きの庭に立ち、非常に不利の條件のまま各人各様の判決を受けたのであります。
太平洋戰爭中は、戰爭前の主として北米から輸送するものに代わつて、南方のスマトラ、マライ、ボルネオ等よりの輸送船の大小多數が出入いたしまして、陸上には船舶代理店が軒を竝べて、船員寮とか、あるいは厚生設備、あるいは旅館、それらの陸上の設備も完備いたしまして、相當繁榮いたしたのであります。