1988-05-17 第112回国会 衆議院 内閣委員会 第12号
○小野寺政府委員 やり方が違うというのは、例えば軍縮交渉等において、あらゆる分野の軍縮交渉というものに乗ってきているというようなこと、それから、アジアでも注目されるところでございますけれども、二国間の関係というものを従来以上に非常に熱心に行っているというようなこと、それから、ウラジオストク演説がございますけれども、そのほかにもムルマンスク演説とか、それから先般のベルグラードにおける演説というような、
○小野寺政府委員 やり方が違うというのは、例えば軍縮交渉等において、あらゆる分野の軍縮交渉というものに乗ってきているというようなこと、それから、アジアでも注目されるところでございますけれども、二国間の関係というものを従来以上に非常に熱心に行っているというようなこと、それから、ウラジオストク演説がございますけれども、そのほかにもムルマンスク演説とか、それから先般のベルグラードにおける演説というような、
ヨーロッパはヨーロッパ独自の見解を持ち、あるいはイランのホメイニ師は独自の見解を持ち、あるいは発展途上国はベルグラードやあるいはニューデリーに集まって、七十数ケ国あるいは百カ国近い国々が独自の見解を出す。日本は日本でまたASEANの国々と提携をし、あるいは東アジア全般の平和問題を特に考える。こういうようなわけで、政治的には非常に多極化してきたということが言えると思います。
ベルグラードの会議にも、私、日本代表として参りまして、なおわが国の所見も述べた次第であり、また特に、国連大学につきましては、御案内のとおりに、日本が少なくとも国連大学の設立に当たりましては、最も積極的に努力いたしておりますことは御案内のとおりであります。
よって、私は、八日、ベルグラードに赴き、故大統領の国葬に参列いたしました。 故大統領は、ユーゴスラビアの偉大な指導者であったのみならず、九十カ国を超える非同盟運動の創始者として世界の平和と安定の維持に大きく貢献してこられた二十世紀最後の偉大でありました。 国葬は、八日、歴史的な指導者の逝去を悼むにふさわしく、百カ国以上の諸国首脳の参列を得て盛大かつ厳粛にとり行われました。
よって私は、八日ベルグラードに赴き、故大統領の国葬に参列いたしました。故大統領は、ユーゴスラビアの偉大な指導者であったのみならず、九十カ国を超える非同盟運動の創始者として、世界の平和と安定の維持に大きく貢献してこられた二十世紀最後の偉人でありました。 国葬は八日、歴史的な指導者の逝去を悼むにふさわしく、百カ国以上の諸国首脳の参列を得て、盛大かつ厳粛にとり行われました。
昭和三十二年以来ユーゴースラヴィア側よりたびたび文化協定を締結したい旨の申し入れがありましたが、わがほうといたしましては、この協定が両国間の親善関係の増進に寄与すること、固有の文化的伝統を有するユーゴースラヴィアとこの種の協定を結ぶことに意義があること等を考慮してこの申し入れに応ずることとし、ベルグラードにおいて昭和四十二年一月以来交渉を行ない、その結果、昭和四十三年三月十五日に東京において正式署名
昭和三十二年以来ユーゴースラビア側よりたびたび文化協定を締結したい旨の申し入れがありましたが、わがほうといたしましては、この協定が両国間の親善関係の増進に寄与すること、固有の文化的伝統を有するユーゴースラビアとこの種の協定を結ぶことに意義があること等を考慮して、この申し入れに応ずることとし、ベルグラードにおいて昭和四十二年一月以来交渉を行ない、その結果、昭和四十三年三月十五日に東京において正式署名を
近く外相も行かれるらしいのですが、実は先日ウイーンに行きまして、ちょうど法眼大使とベルグラードの曽野大使も来ておられまして、いろいろ話したのですが、日本は一体どういう方針でおやりになるのか。
これはユーゴスラビアのベルグラードに、軽症から中症、重症の三段階に分けてのものがあって、あれはチトー元帥が戦争中にゲリラ活動をやった。そのために傷痍軍人が多いとともに、民間の連中も相当に傷ついて、それが社会復帰をする者もあれば、重症として再び立ち上がれないという老人もある。そのトレーニングぶりはなかなかみごとでして、行ってみると、軽症の者は、片ちんばであってもちんちんをやっている。
五月初めにベルグラードの中立諸国首脳会議で平和共存、中立主義の堅持、新しい集団植民地支配体制に反対する態度をとったことを政府はどういうふうに考えておられるか、これは大臣にひとつお聞きしたいと思います。
そのために、去る九月ベルグラードで開かれたAA諸国会議では、新しい植民地主義に反対する決議さえ行なっておるような次第であります。だから、日本の輸出政策は今後ますます大きな壁にぶつかることは当然でありましょう。それにおいて政府の輸出振興の呼びかけはますますヒステリックとなり、そのために国民の税金は独占資本の投機と冒険主義にむだ金として使われていくってことは明らかであると思います。
(拍手) 次に、ベルグラード市におけるいわゆる中立国会議と申しますか、中立政策の国と申しますか、中立国の国々と申しますか、お集まりになりまして、いろいろお話をなさいました。
一行はハワイ経由米国を視察し、フランス、英国、西独等を視察して、八月二十九日チューリッヒにおいて衆議院議員団と合体し、ベルグラードに向いました。われわれのユーゴ訪問は、ユーゴ連邦議会議長よりの招待によるものでありましたが、ユーゴ到着以後は国の賓客としてきわめて丁重なる処遇を受けました。
政府の説明によりますと、わが国とユーゴースラヴィアとの間の通商航海条約は、大正十二年に締結されたものでありまして、戦後の実情に適しない点がありましたので、昭和二十八年以来、新条約の締結について交渉が進められました結果、本年二月二十八日、ベルグラードで本条約の署名が行われたのであります。
よって、昭和二十八年に新条約締結の交渉が始められましたが、本年に入り、ようやく妥結を見ましたので、二月二十八日にベルグラードでこの条約が同国の間に署名を見るに至りました。 この条約は、現行の両国間の通商航海条約を参照し、かつ戦後わが国が締結した日米、日諾通商航海条約、日印、日ソ、日波通商協定等と類似した内容のものであります。
かくて昭和二十八年八月ユーゴ側は新条約の草案を提示して参りまして自来ベルグラードにおいて交渉が続けられ、途中双方の意見が対立して交渉が中断される事態もありましたが、本年に至りましてユーゴ側がわが方の主張に大幅に歩み寄った結果、ようやく妥結を見ましたので、二月二十八日にベルグラードで在ユーゴスラビア加瀬大使とユーゴスラビア代表ツルノブルニや外務次官との問に署名を了した次第であります。
かくて、昭和二十八年八月、ユーゴー側は新条約の草案を提示して参りまして、自来、ベルグラードにおいて交渉が続けられ、途中双方の意見が対立して交渉が中断される事態もありましたが、本年に至りまして、ユーゴー側がわが方の主張に大幅に歩み寄った結果、ようやく妥結を見ましたので、二月二十八日にベルグラードで、在ユーゴースラヴィア加瀬大使とユーゴースラヴィア代表ツルノヴルニヤ外務次官との間に署名を了した次第であります
従いまして、ただいまベルグラードないしはユーゴが、特に関心を持っており、従って端的に申し上げますと、ただいまのハンガリーの政権が、まあいわゆるチトー化と申しますか、そういう方向にあるという話は、私は寡聞にして聞いておりません。
○森元治郎君 場所がベルグラードで三十一年という戦時下のお話ですから、多分広瀬公使がおられたころのことかと想像するのです。それはそれとして、どうして三十一年あたりのが三十四年の今日まで延びてきたか。予算の関係その他いろんな理由があるでしょうが、どういうことかということが一つと、ハンガリーではナジの事件や何かで、大へん日本の一部では同情を買ったことがある。
これに対しまして、いわゆるフルシチョフは、そういったユーゴ関係を是正する必要というものを世界政策の観点から痛感したものと思われまして、ここにソ連とユーゴとの一応の和解というものが、例のベルグラード宣言を中心として、なったのであります。
いわゆるユーゴ党大会で、あるいはベルグラード宣言の線に沿いまして、フルシチョフこそはユーゴとの和解、また、従来の行き過ぎを是正しよう、つまり、スターリン下の線に沿って是正しようと考えている旗頭である、という考えを非常に強く持っておったわけであります。
そのことについて、ベルグラード宣言の趣旨に反するというおそらく趣旨の抗議があったと思われるのでありますが、その後においてコミンフォルムが正式に解体されるというような事件が起りまして、そういうような点から見ますと、どちらかというと、ソ連の共産党の中でスースロフは強硬派と申しますか、ユーゴに対しては強い線を出していく三張者だと思います。
事實はどうかわかりませんでございましたが、とにかくこの九月の末にポーランドにおきまして、九箇國の共産黨が協議會を催しまして、ベルグラードに常設の情報局をおくということは、發表された通りであります。 この情報局の任務はどういうものかと申しますと、この今のコンミニユケによりますと、コミンテルンの解散後の經驗は、各國の共産黨の間がばらばらになつておることが正しくない。
今囘發表せられましたところのユーゴースラヴイアの首府のベルグラードにおきまする共産黨情報局の設立ということは、形は非常に積極的なものに見えますが、實はマーシャル・プランに對するための一つの防衞的な措置とも言えると思うのであります。