2020-01-28 第201回国会 衆議院 予算委員会 第3号
そこで、我々は交渉の姿勢として、長門合意で行ったように、かつては、米ソ冷戦構造時代には、大変厳しい環境下ですから、もちろん外務大臣も、例えば、グロムイコ外相とは会えない、もちろん当時のブレジネフ書記長とは全く会えないという状況が長く続いた中において、例えばこちらの言い方を非常に強い姿勢で維持するということは、それは当然のことなんだろう、こう思うわけでございますが、その中で、我々はアプローチを変えて、
そこで、我々は交渉の姿勢として、長門合意で行ったように、かつては、米ソ冷戦構造時代には、大変厳しい環境下ですから、もちろん外務大臣も、例えば、グロムイコ外相とは会えない、もちろん当時のブレジネフ書記長とは全く会えないという状況が長く続いた中において、例えばこちらの言い方を非常に強い姿勢で維持するということは、それは当然のことなんだろう、こう思うわけでございますが、その中で、我々はアプローチを変えて、
それからしばらくたちまして、一九七三年、田中角栄首相とブレジネフ書記長の日ソ共同声明があったわけでありまして、これは平和条約締結のための交渉を継続することを確認した。 また、一九九一年、海部俊樹首相とゴルバチョフ大統領との日ソ共同声明、ここにおいては、北方四島の名前を列挙して、その帰属が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることを初めて文書により確認したものであります。
あのとき、パノフ大使は、その七三年の田中・ブレジネフ会談で、ブレジネフ書記長はダー、ダーと述べたと。しかし、それは未解決の諸問題がないという認識の中でダー、ダーであったというのがロシア側の判断なんですね。日本側の記録は、日本側はダー、ダーと了解したということになっているのですよ。
未解決の問題が両国にあるということを認識するかということに対して、ブレジネフ書記長は、口頭でダーと答えたということですね。
そして、領土とは四島であると、二度にわたって周到にブレジネフ書記長に確認させたわけでございます。次に、九一年の四月のゴルバチョフの訪日に際して、海部・ゴルバチョフコミュニケが出され、解決されるべき領土問題の対象とは北方領土四島であり、四島の日本名である国後、択捉、歯舞、色丹は明記したわけであります。
でありますので、ブレジネフ書記長に拒否されてしまったわけであります。そして、外務大臣グロムイコ氏にも拒否されてしまったわけでありますけれども、七九年六月にSALTⅡの条約交渉をいたしまして、その結果七年間核兵器の削減をすることができたわけであります。それ以来、START条約はレーガン大統領とブッシュ大統領によって引き継がれてまいりました。
一九五六年には松本・グロムイコ書簡、これによりまして領土問題を含む平和条約締結交渉の継続に合意をした上で、その上で日ソ共同宣言、これが署名をされまして、一九七三年の十月の田中総理の訪ソの際、ブレジネフ書記長との首脳会談におきまして、北方四島の問題が戦後未解決の諸問題の中に含まれることが、口頭ではありますが確認をされました。
当時、何というんでしょうか、米ソの雪解けというかデタントムードが醸し出され始めたころで、核戦争防止協定にブレジネフ書記長がアメリカヘ行って署名をしたということもその前年に行われておるわけでありまして、米ソがそろそろ力による対立をやめて、そしてデタントに入っていこうとしておる背景があったときにCSCEのヘルシンキ宣言というものが生まれたんだ。
ニクソン大統領あるいはそれを引き継ぎましたフォード大統領が三度にわたって訪ソする、あるいはブレジネフ書記長が訪米するとかいうことがございまして、また具体的にも、SALTⅠの署名、引き続くSALTⅡの交渉あるいは核戦争防止協定の署名、そうしてNATOとワルシャワ条約機構との間の通常兵力の削減交渉あるいはヘルシンキ宣言というようなまさにデタント花盛りというような情勢、そういった国際情勢の中で策定されたのが
そういうことはございましたけれども、実際は戦後の日ソの関係で本格的に総理自身がソ連の首脳と、北方領土問題だけではありませんけれども、かんかんがくがくやって、重要問題を解決するというふうな努力は、この二回だけでありまして、あと、八二年に鈴木総理がブレジネフ書記長の葬儀に行かれる、八五年に中曽根総理がチェルネンコ書記長の葬儀に行かれる、これは弔問外交でありました。
我が党は、かつてソ連がブレジネフ書記長のもとで対抗する軍事ブロックの同時解消、核兵器の全面禁止を棚上げして軍事力均衡論に走ったとき、これを軍拡競争の悪循環を強め緊張を激化させるものと批判し、さらにアフガニスタンへの軍事介入を強く批判しました。
ところが、私なりに見ておりますと、戦後四十年、時事通信社の記者として、特派員として、一緒にモスクワには行きませんでしたけれども、サンフランシスコ講和条約のときのソ連、日本の対応、そしてまた言うまでもありませんが、鳩山総理、重光外務大臣、そしてまた河野農林大臣を初めとして田中さんもブレジネフ書記長と会っておられる。
○宇野国務大臣 領土問題に関しましては、田中・ブレジネフ会談において当時の田中総理から、戦後未処理の案件が日ソ間にはある、その中に北方四島問題があるということについてはブレジネフ書記長は御承知であろうな、こういう質問をなさっております。
今まで領土問題に関しましては、そういう問題は解決済みであるとかもはやないとか、相手によっていろいろ言われましたけれども、やはり一番最近では、田中元総理がブレジネフと会われたときに、戦後未解決の問題はたくさんあります、その中には領土問題が含まれておりますよと再三にわたって言っていらっしゃいますが、それに対してブレジネフ書記長が、最初はヤー・ズナーユ、私は知っておりますと答えておりますし、もう一度別れ際
それまでアメリカは、ブレジネフ書記長の時代からアンドロポフ、チェルネンコ、そしてやっとゴルバチョフという指導者に出会うことができた。その間レーガンさんは非常に気長に辛抱しながら努力をして、そして二人の間にあのような一つのすばらしい合意ができた、こう言っております。その間にシュルツ国務長官は何度も何度も足を運び、あるいは第三国において、あるいはまたアメリカにおいていろいろな交渉を続けております。
それで、前にも予算委員会でもずっとやってきたんですが、一つどうしても気になるのは、昭和四十八年の十月に当時の田中総理が向こうへ行かれまして、ブレジネフ書記長と首脳会談をおやりになった。いわゆる田中・ブレジネフ会談で共同声明を出しました。その中には歯舞、色丹、国後、択捉という名前はなくなっちゃった。
そのときに私はブレジネフ・田中会談に触れまして、日本としての共同声明のいきさつ、未解決の問題の中には北方四島問題があることをあなた御承知ですねと田中総理は念を押された、それに対しましてブレジネフ書記長は「ヤーズナーユ」、私は知っておりますというロシア語を使いまして、そういう話もしました。
私はソ連の立場の方は聞いておりませんが、アメリカの指導者からは直接伺った話でありますが、レーガン大統領はそういう気持ちにおいて、ブレジネフ書記長の時代からアンドロポフ、さらにはチェルネンコ両書記長、このときも粘り強く話をしたんだ。そしてやっとゴルバチョフ書記長になってからお互いが合意するところまで来ました。やはり長い歴史がございます。
先ほど私もちょっと触れましたが、かつてブレジネフ書記長、さらにはアンドロポフ書記長、チェルネンコ書記長、そしてやっとゴルバチョフ書記長の間にこれが実った。そのことはレーガンさんが、最初からもう四代かかったよ、やはり粘り強いということが必要だね、こういうふうな調子でおっしゃっておる。世界の歴史において、いろいろな問題を解決するためにはとにかくそうした努力が必要でございます。
一九七五年に、あの年はいろいろな意味で国際情勢の曲がり角であって、アジアで言えばベトナムの結局サイゴンまでの解放が行われたという年であったし、ヨーロッパではヘルシンキ協定が結ばれまして、それでワルシャワ体制の諸国とNATOの諸国の間の根本的なデタントの大きな橋がかけられた、こういう時代であって、そういう背景の中で当時アメリカのカーター大統領とソ連のブレジネフ書記長の間でSALTⅡも調印された。
また、ソ連に関しましては、ブレジネフ書記長の時代にはアメリカとソ連の核兵器の抑止力の均衡、このバランスで平和が保たれている、そういう立場でありましたが、ゴルバチョフ書記長の時代になってからは、核兵器廃絶を現実の外交交渉の目標として掲げるようにこれははっきりと変わってまいりました。
あと、鈴木総理が一九八二年にブレジネフ書記長の葬儀のときに行かれ、中曽根総理自身は、一九八五年三月にチェルネンコさんの葬儀のときに行かれたということでありまして、ソ連からの最高首脳の訪日というのはいまだかつてなかったのであります。そのこと自身も必ずしも正常ではございません。そういう意味で、懸案の問題を抱えて、速やかに日ソの首脳会談が行われるということに対する我々の期待というのは極めて大きい。