1995-04-25 第132回国会 参議院 建設委員会 第9号
その後、その復興計画は予算の関係で縮小されましたが、後藤新平さんの初めの案は物すごい大規模な根本的な改造計画でありましたが、ごらんのとおり、昭和通りその他幾つかの大通りが完成しましたが、住宅その他の建設はいわゆるバラック復興で、そのままそれが残ってしまった。もう一回それを復旧する間もなく、大空襲でまたそれらが全焼してしまったわけでございます。
その後、その復興計画は予算の関係で縮小されましたが、後藤新平さんの初めの案は物すごい大規模な根本的な改造計画でありましたが、ごらんのとおり、昭和通りその他幾つかの大通りが完成しましたが、住宅その他の建設はいわゆるバラック復興で、そのままそれが残ってしまった。もう一回それを復旧する間もなく、大空襲でまたそれらが全焼してしまったわけでございます。
それで、その二回が日本の災害後の改造のチャンスであったとよくいわれておりますが、二回とも日本の習性と申しますか、要するにバラック復興で非常に早く復興してかせごう、そういう思想が災害の直後にどうしても起こってくるわけです。英国のロンドンは一九六六年ですか、小さな火事でありましたけれども、その後一切の木造建築を禁止した。これは材料その他の関係もございましょうが、日本はそういう処置をとらなかったのです。
先ほど申しましたように、都市計画自体も、初めは後藤新平さんあるいは戦後も小林一三さんという人たちのときには、思い切ったことをやろうという案が必ず出たわけですけれども、それがやはりバラック復興、何しろ早く復興してかせがなければいかぬ、そういう思想に押されて、結局は都市計画も思い切ったことをしないし、不燃建築というのもそれを切りかえられなかったわけですね。