2017-03-29 第193回国会 衆議院 外務委員会 第7号
そうした意味での選択肢も含めて、これは、いわゆるネーションステートと言われる国家というのは、徴税権をそこへ向いて渡してしまうというのは非常に嫌がることですけれども、ある意味、国が法律で決めていくように、条約という手段の中でその制度設計ができるということであるとすれば、これはもう一つの選択肢であるし、世界が一つ前向きに動く選択肢でもあるというふうに思うんです。
そうした意味での選択肢も含めて、これは、いわゆるネーションステートと言われる国家というのは、徴税権をそこへ向いて渡してしまうというのは非常に嫌がることですけれども、ある意味、国が法律で決めていくように、条約という手段の中でその制度設計ができるということであるとすれば、これはもう一つの選択肢であるし、世界が一つ前向きに動く選択肢でもあるというふうに思うんです。
ちなみに、近代国家とは国民国家、ネーションステートであり、国家をもってステート、つまり政府と政府をも含む国民の共同体、つまりネーションとによって成り立っていると見るのが政治学における常識ではないでしょうか。
これを通して初めてあらゆる災害に対して国家が強靱化されるということでありまして、この国家とは何かというと、これはいわゆるネーションステートのことを意味しており、国土、国民、主権であります。
この国家というのは、しばしば、ステート、すなわち政府と同義語で使われるときがあるんですが、本来は国家というものは、先ほども公述のところで申し上げましたように、ネーションステートであって、国民国家全体であって、国家、家でございますから、そこの家族のメンバー全員のことを意味することであります。
例えば、フランスの憲法なんかだと、もうこれは釈迦に説法ですけれども、EUに入って、外交権が、その主権、ネーションステートじゃないEUというものに持たせるということは憲法を変えないとできないですから、これはマストなんですね。だから、ちょっとそういうことのきちんとした整理をやらないといけないと。 それから、政党で憲法改正文作るときはチームに分けるわけですよ。
一方では、私は、そういう意味では引き算の政治ということも、削るものは削っていくというような物のつくり方も、足し算ばかりやってきたけれども、実は引き算の政治ということも大事な時代だと思っておりますし、同時に、国家というものを考えると、ネーションステートという、国民国家という中で、強い国土をつくろう、強い国家をつくろうといって走っていく中で、限界集落とか過疎地というものがますます弱くなっているのを切り捨
一点は、スポーツとは何かということをめぐる問題、それから二点目は、スポーツ団体の自治、自立の問題、三点目は、国際的な潮流、ごく簡単に申し上げますと、二十世紀のスポーツはネーションステートのフレームの中で成長しました。それはまさに、オリンピックや国際競技大会に象徴されるようにですね。
究極な話をいたしますと、ぜひここをお聞きしたいんですが、地域主権、地方分権を究極してしまうと、では、国家というネーションステートが行うべきことは、パスポートの発行と管理以外はすべて地域がやるというお話になってしまうのではないかと思っているんですね。ここが、地域自治ということを行った人間の、私が非常にアンビバレントな気持ちを持つところでございます。 そこで、一点お聞きいたしたいと思います。
そういった意味で、各ネーションステートからグローバルなところに大きな問題が移った、そういう時代に我々は今立っているんだろう、こう思っております。 何度も申し上げておりますが、四十六億年前に宇宙の中に地球ができ、そして四十億年前に命が初めてこの地球に発生した。
ステートといった場合に、まさにネーションステートであります。歴史的に形成された主権を持った国家という場合には、やはり国家ですね。この場合は、当然統治機構も含むんですね。統治機構があって、納税をする国民がいて初めて国家ですから、この場合に、国家は当然統治機構を含んだ国家の主体であります。そこに国民は戸籍もあり、すべてが帰属する。だから国家なんですね。
自立した人間というのは、個人は、やはり自分が何をできるか考えるべきだというふうに思っておりますけれども、この言葉、これはフォー・ユア・カントリーというふうになっております、フォー・ユア・ネーションステートではございません。国をそういうふうにとらえていいのかどうか、総理の御所見を伺いたいと存じます。
時間がちょっと延びましたが、最後に、済みません、この国際的なテロや民族、宗教間の対立でありますが、国連が今ネーションステート、これは民族国家というんですか、国家ということを中心に成り立っている組織なんでありますが、私は、最終的には、国家を超えた問題、いわゆる民族、宗教等々あるいはテロ活動は、今の国連ではなかなか解決ができないんじゃないかなという思いがしております。
またグローバリゼーションと情報化に伴う新しい変化や価値の転換により、国家あるいは国民という概念、今のネーションステートもそうかもしれませんが、こういった概念も変化しつつあると思います。例えばヨーロッパに見られるような国家主権の移譲や主権の共有、私どもとしてはアジアとの共生なども視野に入れる、そして新しい憲法を考えることが必要だと思います。
大変に理想的ないい文章で書いてありますけれども、私は、この憲法の前文というのを英語の、日本国憲法の英文の方と比較して読んで常に疑問が解けないのは、ネーションステートの枠組みというのをこの日本国憲法はどう考えているんだろうかということであります。 国際連合というのはユナイテッドネーションズであって、ネーションステートが束になったものであるわけです。
主体が国家でないということであったり、地域が世界じゅう全くどこでもあるということであったり、いわば標的が無差別というのは、残念ながら戦争というのはそういう要素を常に持っておりますけれども、そういうことを考えると、場合によっては、冷戦後とかいうことではなくて、もう二百年、三百年のネーションステート以来の戦争の態様が根本的に変わるというぐらい大きな変革ではないかというふうに思います。
一方で、失敗、あるいはまだ私たち恐らく、それぞれのネーションステート、民族国家というのが構築していないシステムなんだろうと思うんですが、紛争や国家破綻をいかに事前予防していくかということと、あるいは、今アメリカが一国、超大国になったという関係から、この間のイラクで見られたように、一国主義でプリエンプティブに、先制攻撃をかけてそのレジームをチェンジしていく、変えていくということ、これは国連の機能が果たされていない
国境をなくして、ネーションステート相互間で国防軍を廃止しようという理想を、ヨーロッパという部分的な地域であれ実現しようとしていることは、実にすばらしい。そのために、国家主権の移譲とか共同行使という新しい概念をつくり出していることに敬意を表する。
つまり、ある意味で、国境を挟んで、ここにいわゆる境界があるんだということで、各民族やあるいはネーションステートの国民と言われた人民が対峙をしない。つまり、軍備を構えて国境線を挟んで対峙するということがヨーロッパの二十五カ国の中ではなくなる、なくなったという現実があるということであります。
しかし、私たちが国と言うときに、ネーションステートとしての国家という意味合いと、例えば正月になれば故郷(くに)に帰るよというように、国という言葉を、故郷、ふるさとという字を書いてクニと私たちは言うわけですから、その国をよくするというのはふるさとをよくすることだということでもあるわけですから、ぜひ、大変力を入れて演説していたらもう時間が来てしまいましたが、説明をもっともっとしっかりとしていただいて、自分
先ほど、私は、ネーションステート、要するに国民国家中心の時代は変わりつつあるとは申しましたけれども、やはり国家あるいはそれに準ずるものとの間の対立関係の芽というか、可能性というものも、なお否定し得ない状況にあるわけでございますし、また、そういうものに対応する地域的な、国際的な枠組みがきちんとできているかと申しますと、確かに、ARF、ASEAN地域フォーラム等々の組織もございますけれども、これはまだ信頼醸成
五番目は、多民族国民国家、ネーションステートの新たなる求心力の形成。六番目といたしましては、先進諸国と開発途上国との間の緊張をはらんだ国際関係の二重構造というものが挙げられます。 次に、これらポスト冷戦構造を規定する六つの特質を簡潔に説明いたします。
そういう脅威の中でネーションステートを築いていかなくてはならなかったということの中で、ある意味で、そのナショナリズムが必要以上に強調されたというものも、一歩譲ればあったかもしれないというふうに私は思うんです。
しかし、例えばEUのことをおっしゃいましたが、あれはネーションステートの克服の過程というとらえ方ももちろんできないわけじゃないわけですが、私は、ネーションステートの再編成の過程だというとらえ方もあり得るんじゃないかと思うんですね。だから、EUが一つのある意味でのネーションステートになり始めているという現象だともとらえられるような気がするんです。