2014-03-13 第186回国会 参議院 財政金融委員会 第3号
あのフランスでも、ほっといてああいう形の国際社会の中にイメージがつくられたわけではありませんで、終戦後、ドゴール将軍がアンドレ・マルローと一緒にフランスを文化国家としてつくり上げようと努力をした。そして、一九五九年頃でしょうか、フランスの中に文化省ができました。アンドレ・マルローというのは、作家と言っていいんでしょうか、文学者です。
あのフランスでも、ほっといてああいう形の国際社会の中にイメージがつくられたわけではありませんで、終戦後、ドゴール将軍がアンドレ・マルローと一緒にフランスを文化国家としてつくり上げようと努力をした。そして、一九五九年頃でしょうか、フランスの中に文化省ができました。アンドレ・マルローというのは、作家と言っていいんでしょうか、文学者です。
このアンドレ・マルローの動き、働きに関しては、ドゴール将軍との出会いというものが大きな契機となっております。 一九五八年六月、ドゴール政権成立によってアンドレ・マルロー氏は情報相となりました。さらに、一九六〇年から六九年にかけては文化相として、十年以上文化相としての仕事をし、フランスが文化大国となるための政策を遂行いたしました。
大分前の話でありますが、フランスの元大統領のドゴール将軍の有名な言葉に、すぐれた軍人ですぐれた政治家であったこの人が、食糧の独立がなければ民族の独立はないということを言ったのは、やや古典的でありますけれども、今日の日本にとって非常に重大な警告ではないか。
○宮澤国務大臣 それは、ドゴール将軍の心事はなかなか推測するに容易でないのですけれども、要するに米ソの、それこそ米ソの一種の優位の支配体制というものに対して、フランスの栄光あるいはヨーロッパの栄光というものは立ち向かわなければならない、それに従属をすべきものでないという思想が基本にあったものと私は思っております。
ポンピドーがこの間サウジアラビアの王さまをつい三週間くらい前招待をいたしましたし、あるいはドゴール将軍がサウジアラビアからあの辺全部回っておりますし、そういう積極的努力をして現地の情勢を実によく知悉しておるわけです。ですから、大体ヨーロッパの国は、消費国同盟というような対決方式はもう刺激するばかりで、生産制限をちょっとやられたらたいへんだと、値が二割、三割上がってしまう。
ほかの国々は、たとえばドゴール将軍のような場合は、みずからそれらの国々の一部を訪問したり、それからECの諸国あたりでは、担当大臣になるとすぐ飛んでいってあいさつをする、そういうような国もございます。ところが、幸か不幸か日本の現職大臣で行った人がまだ一人もいない。
それが十万人にふくれ、二十万人にふくれ、二十五万人にふくれたときに、二十五万人の軍事顧問とはこれいかに、これことごとくGIではないか、このようにドゴール将軍からひやかされておるのであります。「ル・モンド」紙を読みましても、朝日新聞にまさるベトナムの率直な記録が連載されております。
したがって、そういう意味では、すべての決済手段を金でやるという考えではドゴール将軍もおられないように私は察しておるわけでございます。
ドゴール将軍がフランスの利益のために叫び、ピアソン氏がカナダの国民の意思を代表して叫び、また西ドイツですら、エアハルト氏が近ごろは西ドイツ独自の道を叫んでおるときに、どうも日本はアメリカのしりに敷かれてしまったのじゃないか。ジョンソンのドルの座ぶとんの下に敷かれた。しかもまことにひどいことには、その軍事費の残飯に心引かれていく。
ところが、当時すでに欧州の大勢は、フランスが連合軍の手によって再び解放されまして、そして、いままでドイツと親善関係にあったビシー政府はなくなりまして、いまのフランス大統領のドゴール将軍が率いる臨時政府がパリに入城いたしました。したがって、日本がビシー政府と結んだ共同防衛条約によって仏印三国に駐在もしておりました日本軍の立場はすこぶる微妙なものになったのでございます。
しかし、ドゴール将軍は宇垣将軍と近衛公と一緒にしたような政治力がありまして、マンデスフランス、フォール氏のような秀才を、日本でいえば松本重治氏みたいな人材をうまくブレーン・トラストに糾合して、ついにいわばアルジェリア関東軍板垣を弾劾に処して、アルジェリアの満州事変を食いとめた。まことにみごとな態度で、フランスながらあっぱれである、こう思っておる次第でございます。
問題はそこから出発いたしまして、先日も与党の三木議員とある雑誌で対談会がございましたときに、三木議員が申されますのには、ドゴール将軍が中国に対してフリー・ハンドに思い切った行動ができたのは今日のフランスが身軽な立場にあるからである、こういう御発言がございました。
その後、昭和十九年八月に至って、ドゴール将軍がパリに帰還いたしました。政府は、このときをもって日本とフランスとが戦争状態に入ったとの見解をとっているのであります。