2009-02-16 第171回国会 衆議院 予算委員会 第13号
私どもの党でも、どんな地域雇用推進ができるのか、あるのかということで、今PTを立ち上げておりますけれども、一九三〇年代のニューディール政策、これはテネシー渓谷等が有名でございますが、その公共工事の第二次として、フェデラル・ワンという文化芸術政策、そういうものの推進というものもしてまいりました。 私は、ちょっと視点を変えまして、農閑期のときに出稼ぎの方がたくさんいらっしゃるんだと思うんですね。
私どもの党でも、どんな地域雇用推進ができるのか、あるのかということで、今PTを立ち上げておりますけれども、一九三〇年代のニューディール政策、これはテネシー渓谷等が有名でございますが、その公共工事の第二次として、フェデラル・ワンという文化芸術政策、そういうものの推進というものもしてまいりました。 私は、ちょっと視点を変えまして、農閑期のときに出稼ぎの方がたくさんいらっしゃるんだと思うんですね。
このニューディール政策にいたしましても、テネシー渓谷の開発だけが有名ですが、そうではない、学校をつくった、人材を確保して、農業を整備して、社会整備をした、そういうプロセスもございます。ただ、これだけでは経済を立て直すことができなくて、フェデラル・ワン、文化芸術振興もやっております。 ただ、ニューディール政策で必ずしも経済を復興することができなかったという検証もございます。
例えば三百万人の失業者を雇用した、それから公共工事を行ってきた、ダムだとかテネシー渓谷というのが私どもの中にはすぐ頭に浮かんでまいりますけれども、一方でまた忘れてならないのは、フェデラル・ワンと言われました芸術家雇用政策を展開したのです。これが、七十年たちました今でも、私はこの大不況の中においてちょっと考える政策の一つではないかというふうに思っております。
不景気のときに、アメリカで一九二九年の大恐慌の後の一九三〇年代に、ルーズベルト大統領がその大恐慌を乗り切るためにニューディール政策というのを行われたわけですけれども、若干参考にお話しさせていただきますと、ニューディール政策、新規巻き直し政策というわけで、そういう不景気なときに、もちろん一本の柱はダムを造ったり、テネシー渓谷開発計画、TVAの計画がありましたし、土木事業中心というようなイメージもありますけれども
これはどちらかといいますとテネシー渓谷開発公社とか、ダムをつくったり土木中心というイメージがあるんですけれども、実はこのニューディール政策のもう一つの柱の政策は文化芸術でございました。連邦美術プロジェクト、連邦音楽プロジェクト、連邦劇場、あるいは連邦作家プロジェクト、歴史記録調査、五つのプロジェクトを設けました。 美術プロジェクトは、五千三百人の美術家を政府が直接雇用いたしました。
やはりニューディール政策といいますと、どうしてもダムをつくったり、あるいはテネシー渓谷開発公社とか土木事業中心というイメージがあるんですけれども、しかしもう一方、実は文化芸術というのに非常に力を入れたと。連邦美術プロジェクト、あるいは連邦音楽、連邦劇場、連邦作家、歴史記録調査、五つのプロジェクトを設けたわけでございます。
一九三〇年代、ルーズベルト大統領があの大恐慌を乗り切るためにニューディール政策を行うわけですけれども、ニューディール政策、新規まき直し政策といいますと、我々はどうしても、テネシー渓谷開発公社だとか、ダムをつくったり、土木事業中心というイメージがあるんですが、しかし、勉強してみますと、このニューディール政策のもう一つの大きな柱が、実は文化芸術政策でした。
デビッド・リリエンソールは、皆さんも御承知のように、一九三〇年代のアメリカの大不況からどう立ち直っていくかというときに中心になりましたニューディール政策の中核的事業であったテネシー渓谷開発公社、TVAという略称でよく知られておりますけれども、これの総裁として指導し、戦後トルーマン大統領に請われまして、マンハッタン計画から文民管理の原子力委員会にその管轄が移されたときに初代の原子力委員長を務めた人です
翻って考えますと、経済学の方でありますけれども、効果論というのは有効需要拡大によって、TVAなんという、テネシーバレー、テネシー渓谷開発公社なんという、私はテネシー州に住んでおりましたが、ほとんど皆さん現場に行ったことはないと思います。まだありますけれども、これによってアメリカの経済が回復して、まだ教科書に書いてあります、私は従軍慰安婦問題よりもこれは重大なうそだと思っているんですが。
実はアメリカで一九三三年、ニューディール政策の一環として、テネシー川にダムを建設し、洪水の防止と河川航水路の改善を目的として、テネシー渓谷開発公社というのをつくって、一九五三年までに三十一のダムを建設したわけですね。 そして、さらにダムの建設を計画した。その後全国環境政策法がアメリカでも制定されました。そして、一部住民が環境に与える影響について工事差しとめ請求をしたわけなんですね。
その際、占領下でもありましたし、特にアメリカのTVA、テネシー渓谷の開発計画がそのままそっくり持ち込まれ、しかも工事には、アトキンソンを初めとしてアメリカの業者が入ってきて、超重量機械を使って大急ぎでやったわけであります。
十二には、二酸化マンガンによります除害回収法と、それから十二には、米国のT・V・Aでございますね、テネシー渓谷開発公社で開発をいたしました、二酸化マンガンによります亜硫酸ガスの除害方法でございますが、これも小規模なパイロット試験を行なっただけでございまして、これ以上の開発に進むことはできておりません。
これはちょうどアメリカのテネシー渓谷の開発計画に匹敵する計画といわれておりますが、かんがい用とそれから発電用のダムを建設する工事、これは日本も発電機械あるいは送電機械、そういうものも過去入札に加わりまして落札した例がございます。
今アメリカの道路の話が出ましたが、実際アメリカで例の有名なテネシー渓谷のTVAの計画なども、あの計画ができる前に実験研究のために全体の予算の二、三割を使って、それだけの研究をやって初めて永遠に続くところの大きな開発計画が成立するわけですね。そうすると日本の場合だって、この道路はアメリカとずいぶん条件が違うと私は思うのです。冬は積雪寒冷であるし、夏はまた非常に雨が多い。
先ほどテネシー渓谷開発局の話をしましたが、ことにリリエンタールは絶対に政府や政治家の干渉を受けないで、人間の採用については何よりも公正で、そうして会社の幹部が確信を持って責任ある人事採用をしたということが、あの事業成功の第一の前提であった、こういわれておる。
ところが、その同じような時代に、ルーズヴェルトがやりましたテネシー渓谷開発計画というものは、非常に成果を上げたわけで、これはあべこべでございまして、まことに残念でございます。
たとえば、アメリカのテネシー渓谷の開発に当ったTVAの責任者は三人の理事であり、その一人が理事長です。あの大事業をやったテネシー・ヴァレー・オーソリティのいわば総裁が、単なる理事長という名称で、しかもこれは非常なすばらしい仕事をなし遂げた。
道路と住宅で千何百億という金を出しているけれども、国は直接やらぬけれども、研究だけでその中の一割でも二割でも、アメリカの例のT・V・Aのテネシー渓谷ダムなんか、何十年も研究のために全予算の何十パーセントも使っておりますし、そのかわりにできたらりっばなものができておる。日本の方は何もやってない。私は別に研究所の所長さんからゆうべ特別な依頼を受けたのでも何でもありません。
またアメリカにおけるTVAの問題にいたしましても、最初からテネシー渓谷の開発をやるということを銘打ってやっております。ソ連におきましても同様であります。でありますから、私はもう少し視野を広くした——北海道ということが視野が狭いのではなくて、北海道の特別開発をするということが、日本の産業経済、日本の人口の問題に対して、より以上この国に必要であるということがわれわれの考えた点であります。
ルースヴエルトはそれをニユー・デイールでテネシー渓谷のダムやそのダムを開発して、全部吸収した。昭和八年にドイツに行つたところが、ヒトラーもルーズヴエルトのまねをして、八百万人の失業者を道路の改築によつて全部吸収した。それでありますから、日本で失業者を吸収するのには、やはり農村で働かせる。私は国民思想の健全という点からいつても、農民の人口をふやし、そうして食を与えたいと考えております。