病院を牡丹江で開設以来、ソ側の収容所附の軍医並びにあの地区における司令部関係更に上層部から、恐らくソ領から来た上層部の将校だと思います。こういつた人達が、毎日のように来ては、死亡者の状況を気にしていた。
新京に收容された当初、日本新聞の第一号というのを赤軍の機関紙として読まされ、ソ領に入つてもずつと日本新聞を見ておる。で日本新聞に例えば天皇制の打倒であるとか、反幹部、反軍闘爭であるとか、突撃隊運動であるとか、生産競爭であるとか。
いわゆる大衆裁判、人民裁判という言葉は当時ソ領ではあまり耳にしませんでした。それは俗に吊し上げと言われておりました。我々仲間でこれをまあ何と言いますか、形で現わすのに、ここの魚を吊す鈎の格好をしまして、これだ、彼はこれされたというような表示をいたしました。吊し上げ、或いはカンパ摘発というような言葉で言うておつたようでありまい。私自身その吊し上げに二回程遭いました。
二十年の十月の二十二日、新京出発黒龍江の結氷を待ちまして渡渉いたしまして、十一月の下旬にソ領に入り、十二月二十五日モスクワの東南二百キロ程のマルシヤンスク收容所に到着いたしました。昭和二十二年の十一月三日に帰國のためにヤルシヤンスクを出発いたしまして、十二月一日にナホトカに到着いたしました。当時輸送の終末、停止に会いまして、ナホトカで越冬することになりました。
○安東委員長 復員廳から荒尾政府委員が出席いたしておりますから、ソ領における同胞の状況を主として聴取いたしたいと存じます。
○馬場委員 もう一つお伺いいたしますが、萬國赤十字社の好意によつて一部在ソ領邦人からの通信が許されておるのでありますが、今日まで來ておる総量及び萬國赤十字社の好意が容れられて、その他在ソ領邦人に對する手當といいますか、同情というものが行われておるかどうか、萬國赤十字社の好意に對しまして知りたいと思います。