1990-06-05 第118回国会 参議院 予算委員会 第18号
私は逆に言いたいのは、通告もできない、あるいはソ連将校を招待もできない、ソ連政府に見せられないようなそういうおどろおどろしい演習をやっておるんじゃないかというふうに思うんですけれども、いかがですか、防衛庁長官。
私は逆に言いたいのは、通告もできない、あるいはソ連将校を招待もできない、ソ連政府に見せられないようなそういうおどろおどろしい演習をやっておるんじゃないかというふうに思うんですけれども、いかがですか、防衛庁長官。
この間、私はタイへ行ってきましたが、フォンサリ州のムンゲンというところまで雲南省から八レーンの高速道路がついて、ラオスから、いまタイ国、ビルマに中国人のゲリラがどんどん入ってきているということを聞きましたが、その人に聞いた話では、いまでもカンボジアのプノンペンにはソビエト人が十一人、大使館の閉ざされたとびらの中にいる、北方には二百人のソ連将校がいる、こういうことでございました。
例えばある者はソ連将校に拳銃で威嚇されつつ、木銃で数十回も殴打された。気絶すると水をかけられ、蘇生すると再び拷問を受けた。更に裸体にされた上、電線で束ねた鞭で殴打された。またある者は陰部を蹴られ、頭をコンクリート壁にうちつけられて失神させられること数度に及んだ。水を浴びせられて蘇生すると、更に背部や腹部を何度も蹴られ、出血して昏倒した。
そうして一個のグループを結成しまして、そのグループにおいてソ連将校政治部員のニシチエレンコという上級中尉の指導の下に、各グループごとに、ソ連の社会情勢並びに共産主義の実体というような方面において、あらゆる講義、あらゆる指導をブルガーシルを通じて教えておつた。
そして今参議院なり衆議院において、カラカンダにおけるソ連将校が言われたあの問題が起きておるから、帰つたらみんなでそれのもみ消し運動をやらなければならないということがきめられたということを言つておる。その後共産党がいろいろとこの問題のもみ消しのために活動されておるということを聞いております。共産党としては、徳田要請が真実でなければ、真実でないことを確めることに努力すべきだと私は思うのであります。
しかし多数の証人が宣誓をして証言をして、期待であるか、要請であるかはわかりませんが、第九分所において、ソ連将校よりそういう話があつたという事実だけは、われわれは今否定することはできませんから、そのことも事実として考えて、とりあえず私の質問を終ります。
○石田(一)委員 そういたしますと、その中にはこのソ連将校の言つたことを。日本人の菅氏がこれを通訳した。この通訳を聞いて反動と目されない人もあり、反動と目されている人もある。こういうのであれば、この日本語に通訳された言葉自体をそれぞれ自分に関連して解釈して、外でこれを皆さんにお話する。たとえばあなたのただいま御証言になりましたように、これはどうだかわからぬ。
その後あなたがチタを経由して連れて行かれる間に、日本の設備ばかりでなくて、またソ連将校、ソ連兵か行つてしまつたあとへ中共軍と言いましようか、そういうものがただちにまた入れかわつてやつて来たということはありません。
そうすると今静かに考えてみると、あのときは收容所というものはりつぱに民主主義になつていたのだ、ソ連将校の言う通りになつていたのだと、こう今考えておられますか。逆に聞いてみます。
そのはがきを政治部員(ソ連将校上級中尉)から病院民主グループ委員長石田へ、さらに宣伝部長崔景勝に渡された。崔はそのはがきを本人に渡すとき多くのアクチーブを連行し、十号室の病床に来て曰く「大きな声で読め」と。そしてその書面に対し批判を下すとともに、本人を徹底的に吊し上げた。そのため相磯は思いつめ、黒パンや蕪麦の食事にすら喉を通らなくなり、急速度に衰弱惡化した。
○高木(松)委員 そこでソ連将校その他の人の言葉、またその言葉を訳されて日本の抑留者の耳に入つたアカハタのそういう転載、しかもその転載は時間的に見て相当の速度で転載されていたというような事実からして、日本共産党とソ同盟との間の連絡は緊密にあつたとお考えになりますか、その点はどうです。
○菅証人 ただ徳田書記長は期待しておると、そういうことをソ連将校が言うたとしても、実際彼が期待を、要請を知つている、受けているからか、あるいは單に推測として述べたのか、それはわからないと思います。
○高木(松)委員 事実あるかないかは知らぬが、ソ連将校はこういう期待、要請があればこそ、こういうことを言われたのだという感じで、あなたは訳されたのでしよう。
○菅証人 実際ソ連将校が、日本から要請なり期待なりがあつたかどうかということを知つていたかどうか、それはわからないのであります。
○吉田証人 私が墓掃除にソ連将校と一緒に行つたときに、われわれに少々草を刈らせて、墓標の整理をしたということくらいが捕虜監理局のとつた処置じやないかと思います。ただ墓場一つにくい三つ植えなければいかぬというところに、大きな疑問を持ちましたが、監理局としては、やはり死んだ人の墓の員数を合せる、そういうことでやつたものではないかと思います。
いわゆるソ連将校が民主教育、ソ連が言う民主教育を徹底的にして帰そう、こういうことにあらゆる手段が行われたということについては、これは四人とも陳述なさつておると思うのですが、それが違うという方がありましたら、陳述を願いたい。
○原虎一君 証人はこの九十九地区カラカンダの收容所以外で、そういうソ連将校なりソ連側が、いわゆる等は要請と言いますか、今マ中尉が日本人のいつ帰還できるかという質問に対して答弁したようなことを、演説し若しくは話すことでその当時そういう言葉を聞いたことがありますかどうか。
○原虎一君 もう一度お伺いいたしますが、そういたしますと、今あなたが通訳されたところの事柄というのはいわゆるソ連将校から初めて言われたことであつて、日本新聞等にはそういうことが載つておつたということになるわけですか。
そうして今ここに最も大きな問題となつているのは、ソ連将校の語つた日本共産党書記長徳田球一氏の言葉であります。
次に、ソ連地区における満刑者の状態でございますが、これも只今まで舞鶴におきまして調査した範囲におきましては、樺太地区等から送られました受刑者の中で、ソ連将校がナホトカまで連れて来た者は、これは正規ら書類は勿論ございませんけれども、今までのところ一人しかおりません。
そこでは大なる調査を受けることなく、十一月二十五日に更にカザンの日本将校の勤務いたしております発電所のラーゲルに約一週間おりまして、十二月一日同地を出発、汽車で單身ソ連将校の附添いの下に、モスコーの七千二十七ラーゲルというところに参りました。参つたのは十二月三日であります。