1955-12-15 第23回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号
四七年、八年を境とする在ソ民主運動の極左的公式主義的なあの偏向、過激な運動のために、幾百の者が刑を受け、幾百の者が死に、幾千幾万の者が涙をのんでこの苦しみに耐えたということをわれわれ自身が知るがゆえに、われわれはこの行為を許すことができなかったのであります。 そこで私は帰ってきて、あの当時の訪ソ議員団の人たちが、どういうふうにハバロフスクの状況を伝えていられるか、私は非常に興味がありました。
四七年、八年を境とする在ソ民主運動の極左的公式主義的なあの偏向、過激な運動のために、幾百の者が刑を受け、幾百の者が死に、幾千幾万の者が涙をのんでこの苦しみに耐えたということをわれわれ自身が知るがゆえに、われわれはこの行為を許すことができなかったのであります。 そこで私は帰ってきて、あの当時の訪ソ議員団の人たちが、どういうふうにハバロフスクの状況を伝えていられるか、私は非常に興味がありました。
その次、これは七枚目ですが、八行目「事実、これらはすべて在ソ民主運動が、日本共産党に直結して行われたことを裏書するものであります。」これを削除する。こういうことはまことに一方的な多数党員の偏見に基く独断であると思うのでありますから、これは削除することを要求します。
、帰還者諸君は全員が一人のごとく民主民族戦線の戦列に加わり、英雄的共産党の旗のもとにその全力をささげ、必要とあらば、アメリカ植民地支配者とその売国的従僕どもに、生命をもなげうつて闘わんことを銘記せよ、と激している事実、また同年七月十五日の日本新聞で、日本共産党創立二十七周年記念日に寄せて、ソ同盟帰還者が徳田書記長に対し、民主民族磯線の鉄の闘士たらんことを厳粛に宣誓している事実、これらはすべて、在ソ民主運動
在ソ民主運動の実態というものを、思想の上から、或いは運動の形態の上から、或いはいろいろな実際のその段階々々におけるところの闘争、そういつたものを具さに実態を調査せられて、そうして在ソ民主運動というものがどういうふうなものであつたかということをもつと科学的に、緻密に帰還者の希望を若しくは各人の証言をもつと広範囲に拡げて、一つの科学的な資料というようなものを得られましたならば、ああいう事実は私は当然その
○鍛冶委員長 「前衛」のことしの四十七号に、あなたの名前で「在ソ民主運動の一決算「という論文を載せておられますが、これはもちろんあなたの執筆されたものであろうと思いますが間違いありませんね。
○鍛冶委員長 それから第一、第三第三とあつて、次のページ第三に、在ソ民主運動の特質としてあげておかねばならぬのは、その闘争の種類と形態の特異なこと、すなわち当時野坂の言つておるように、在ソ民主運動の任務は旧ファシスト的将兵のファシスト思想革命であり、反ファシスト的意識の変革または民主的人間変革にあることである、かように述べておられますね。
○安部委員 あなたの、前衛の相川春喜の「在ソ民主運動の一決算」という文書の中に、先ほど委員長が指摘したように、在ソ民主運動の特徴としてあげておきたいのは、プロレタリア国際主義の基調に立つていたことである。こういうことを書いていますな。それは日本において、現在占領治下においては共産党の政権というものは樹立することができないであろう。
しかし私が言いたいのは、在ソ民主運動によつて完全な戰犯が戰犯としてそういうぐあいにあげられているのならいいですけれども、そうでなくて、ほかの者がどんどん犠牲になつたということを強調したいのです。
○小島証人 綱領とか何かいろいろあつたようですが、自分の記憶しておるのは第一番目に、引揚げの促進のためにわれわれは生きて帰つただけであれなんだから、とにかくがんばろうということ、それから二番目に在ソ民主運動を徹底的に暴露しようということ、それから呼びかけとして、とにかく日本人に立ち返つてくれ、あまり日本人同士がかみ合つたもんですから、とにかく白紙の日本人に返つてくれという呼びかけであつたと記憶しております
しかし彼がそういつたことをやつたということは、彼と一緒になつて收容所を転々しておる者は、たれもが認めておることですから、ほんとうに彼の在ソ民主運動を徹底的に暴露しようとしたならば、幾多の証人が出て来ると思うのであります。
○渡部証人 私が言う在ソ民主運動者であります。
○渡部証人 それはそうだと思いますが、在ソ民主運動のやり方はそうではなかつたということであります。これは今ここで申し上げてもわかりません。というのは在ソ民主運動のやり方が……。
又この第四面においてそのとき展開されておる在ソ民主運動の成果と欠陷が暴露されております。結局この成果によつてシベリアにおける各御主運動が展開され、又日本新聞で欠陷として発表されたことを克服するために運動が展開されて行きました。でありますからこの四面記事によつて日本新聞はシベリアの民主運動を展開し、指示していたということを表現できると思います。以上簡單に申上げます。
従つてそうしたところから出て来たレポ、こうしたものが日本新聞の紙面において出されて他の收容所において取上げられて、又新らしい運動の形度が新聞に発表されたという意味において、日本新聞は確かに在ソ民主運動を指導しました。併しながら日本新聞がこれを上からこうこうせよと言つたところで民主運動は起り得ないのであります。そうした民主運動はあり得ないということを再度申上げたいのであります。