2011-04-15 第177回国会 衆議院 外務委員会 第6号
日ソ基本条約を結ぶに至った機縁になっているということですね。 それから、三つ目の新潟震災。これは新潟とハバロフスクが姉妹都市を結んで、地方都市との関係が進んでいった。こういうことが指摘されるわけですね。 こういう観点で見ますと、私は、この外務委員会においても申し上げたのは、日ロの関係と北方領土の関係で、あの一九四五年の八月十五日から九月二日に至るまでの間に非常に不幸な出来事があった。
日ソ基本条約を結ぶに至った機縁になっているということですね。 それから、三つ目の新潟震災。これは新潟とハバロフスクが姉妹都市を結んで、地方都市との関係が進んでいった。こういうことが指摘されるわけですね。 こういう観点で見ますと、私は、この外務委員会においても申し上げたのは、日ロの関係と北方領土の関係で、あの一九四五年の八月十五日から九月二日に至るまでの間に非常に不幸な出来事があった。
一九二五年、日ソ基本条約締結後も日本は略奪漁業を強行しておるわけであります。一九二五年六月、カニ工船「のと丸」がソ連領域内の密漁でソ連国境警備隊に拿捕されたわけでありますが、このとき水雷艇「たちかぜ」が実力によって奪還しておるわけであります。また一九三〇年六月、水雷艇「あさかぜ」十四号の護衛で四隻の漁船がウスチ・カムチャック湾で湾の入り口を網で区切り強行操作を実施したことも事実であります。
それにつけても思い出しますことは、大正十四年一月二十日の例の芳沢・カラハン条約、すなわち日ソ基本条約でございます。同基本条約第五条によりますれば、これも内政不干渉、赤化宣伝禁止が明記されておりまするけれども、その復交直後からソ連はこれに違反したのであります。
日本側といたしましては、大正十四年の日ソ基本条約の趣旨に基く提案をいたしました。いろいろ論議を重ねましたけれども、結局ソ連側はこれを全面的に拒否いたしました。
これは大正十四年にソ連国ができましたあとの日ソ基本条約、あれができました際に、日ソ基本条約の第四条か何かに、やはり今度の共同宣言第七項と同じように、将来通商航海条約を結ぶということがありまして、それが結ばれるまでの間は最恵国待遇でやる。それから日本国民の入出国、営業、旅行等につきまして一定の保護を与えるという規定があったのでありますが、今度の共同宣言及び議定書には、その規定が全くない。
この前の大正十四年の日ソ基本条約の場合に比べますと、雲泥の差があるように私は看取する。
昨日もある与党の有力な外交関係の人の座談会に行ったのですが、はっきりとまあ日ソ基本条約の事例を引っぱり出して、四年待ったこともあるんだというようなことを言っておられるので、そこに非常に私は問題の中心があると思う。
日本も譲歩したが向うも譲歩した、日ソ基本条約というものが北京で四年半の後にできた。会場は所を変えること四五たびもありましたでしょう。また最近ではオーストリア条約といえどもこれは七年もかかってようやく成立したのであります。私は今日の日ソ交渉がそれと同じ轍を踏むべきであるということは、これは少しも申し上げません。
そのうちに国交を回復する日ソ基本条約というものをこしらえました。これはまあこの問題の初めに出ましたように四年半もかかっておる。容易なことではございません。私はそれに関係をしないこともございませんでしたが、なかなか容易なことではない。そこで今日半年以上もかかっている、長いのでありますが、それかといって、今見切りをつけるということは私にはできんのです。
元来、ソ連相手の交渉は、第一次大戦後における日ソ基本条約の締結、また昭和八年より十年に至りまする北満鉄道の買収の経緯、または最近における欧州の問題等から考えましても、相当長期間を要することはもちろんであります。その間幾多の紆余曲折を免れないものと覚悟しておかねばならないのでございます。
私はこれについて総理に答弁を求めませんが、一体日ソ基本条約ができますときにも、予備交渉を六十数回、本会議も七十数回やったということであります。四年以上にわたって、しかもその間に内閣が三遍もかわった。