2021-03-19 第204回国会 衆議院 外務委員会 第4号
一方で、太平洋戦争突入前の国際連盟の脱退、あるいは日独伊三国同盟締結、あるいは日ソ不可侵条約、あるいは日ソ中立条約とも言われますが、この辺りの中心人物は松岡洋右さんという第六十三代の外務大臣でいらっしゃいました。
一方で、太平洋戦争突入前の国際連盟の脱退、あるいは日独伊三国同盟締結、あるいは日ソ不可侵条約、あるいは日ソ中立条約とも言われますが、この辺りの中心人物は松岡洋右さんという第六十三代の外務大臣でいらっしゃいました。
日ソ中立条約がありますけれども、独ソ不可侵条約がある中でドイツはソ連に攻め込みました。だから、ソ連が中立条約を破って対日参戦したのは許されるんだ、そんなことは言っていませんよ、それはけしからぬことなんです。
その一方で、日本とロシアとの関係、そしてロシアそのものでございますけれども、歴史的に見ますと、第二次大戦のときには、日ソ不可侵条約を当時のソ連が一方的に破棄して、そして満州と樺太に攻め込んだという客観的事実がございます。また、一九四五年の八月十八日には、占守島に、ポツダム宣言を日本が受諾した後にソ連が攻め込んできて、そして今の北方四島もソ連にとられたというふうな客観的事実がこれまたございます。
これは、昭和二十年八月二十八日、八月十五日の後ですが、ソ連軍が択捉島に上陸をして、そのことに対して、ここから無線で内地に対してソビエト軍が急遽上陸してきたと、日ソ不可侵条約はとっくに破られているわけでありますが、このことの打電があったこの建物。もう一つは、択捉島水産会。これもずっと今建っている。
一つは、日ソ不可侵条約、一方的に破棄して、一方的に踏み込んできた。また、八月十五日に天皇陛下の玉音放送があって終戦を宣言したにもかかわらず、その後踏みにじってきたという、大変けしからぬ状況の中で北方四島は今占拠状況になっているわけであります。 アメリカは、沖縄を返してきた。
なぜソ連を加えるかというと、その前に、つまり昭和十四年の、前の年の十四年のドイツがポーランドに侵入したちょっと直後ぐらいに、ドイツとソ連の間の、つまり、ヒトラーとスターリンの間で不可侵条約、独ソ不可侵条約という条約を結んでいるわけです。これが誠に日本から見るとおいしいように見えたんですね。
きょう、午前中の相沢参考人初め、一九四五年八月九日、ソビエト側が日ソ不可侵条約を犯して一方的に南下し、そのときにたくさんの日本人が捕虜になり、そしてその後、きょう相沢参考人がおっしゃいましたのは、八月の二十三日にスターリン発令として、いわば捕まえた日本人捕虜を今度は強制的な労働に、ソビエト全土に分散させるというような形の発令がおろされた、そのことによってたくさんの、六十万人近い方々が抑留という事態と
この辺の事情について大臣に幾つかお伺いしたいのでありますが、ソビエトが、日ソ不可侵条約を破棄して、終戦、八月十五日の前に日本に侵攻したというのは、これは当然許されない国際法の違反である、こういう認識を、町村大臣、お持ちですよね。お伺いしたい。
ラトビアは、しかしながら、自国の意向が反映されないままその運命が決まるような過ちを繰り返してはいけないと参加したが、ラトビア大統領はこの六十周年の記念式典において、対独戦線終結は共産主義のソ連がナチス・ドイツにかわっただけで、ラトビアの真の解放はソ連崩壊まで訪れなかったと言明し、さらに、いわゆる独ソ不可侵条約の秘密議定書等を含め、旧ソ連によるバルト併合についての謝罪をロシアに求めた、こういうふうに書
日ソ不可侵条約と申されましたけれども、正確には日ソ中立条約のことを指しておられるのかと思いますが、この条約は、一九四一年四月二十五日に締結されまして、有効期間は五年間でございますので、一九四六年、昭和二十一年の四月二十四日まで有効であったわけでございます。
日本政府として、六十年前、日ソ不可侵条約を破棄してロシアが日本に侵攻したわけでありますが、これに対してはどのような見解を持っているのか、また、このことに対してソビエトに対して、ロシアに対してどのような抗議をしてきたのか、これについてお伺いいたしたいと思います。
北方編、満州編、中支編、それから北支編、南支編、それから太平洋編とずっとありまして、それを読んで、本当にソ連が参戦してきました八月の九日、あの日ソ不可侵条約を破って入ってきたわけでございまして、日本の方々が大変な思いをされたと、引き揚げてこられたという話もそのとき知りまして、その後戦災孤児といいますか、あの中国の残留孤児の方々帰ってくる。
○水落敏栄君 旧ソ連は、日本が敗戦の色が濃くなるのを見まして、一方的に日ソ不可侵条約を破棄して、昭和二十年八月九日に旧満州や北朝鮮、樺太、千島に侵攻して、軍人軍属のほか一般邦人も含めて五十五万とも六十万人とも言われる同胞をシベリアを始めヨーロッパ、ロシアの広大な地に連行して、千二百か所の収容所で過酷な労働を強いたわけであります。
司馬遼太郎さんは戦車隊の隊長だったんじゃないかと思うんですが、ずっと満州にいて、そのまま満州にいると日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が来て自分はくし刺しになって満州の野でしかばねをさらしていたはずだと。
歴史にこだわらないということは、さっきちょっと説明しましたけれども、日露通好条約、あれは国際条約ですよ、国際法的にも、それから日ソ不可侵条約を破棄して、一方的に破棄してソ満国境を越えてきたとか、それから、その当時の千島列島の最北端に占守島というのがありますけれども、そこにロシア軍が南下してきたのはポツダム宣言を受諾した三日後ですよね。八月十八日ですよ。
満州国があって、そこに日ソ不可侵条約を一方的にソ連が破棄をして満州に侵入したと。もう関東軍はほとんど南に行っていなかったですから、その間、婦女子ばかりが逃げ惑う。だから、手足まといになる子供たちをまず、ある面ではかわいそうに、亡くなった人がたくさんいるわけです。何千人ですよ。
かつて、ヒトラーとスターリンが手を握ったんです、独ソ不可侵条約。あのとき西側の諸国は、悪魔と悪魔が手を結んだ、これは大変なことだ、戦乱のおそれありと言って皆驚き恐れたわけですが、現実はそうなりまして、人類史上初めてと言っていい大戦争が起きまして、結局命を失った人が何千万人という大災害にもなったわけであります。 さて、この国はどうなのか。
日ソ不可侵条約の一方的な破棄に対し、橋本・エリツィン・プランを進める上でも、このことが最初の出発点でなければならないのであります。これらについて、総理の見解をお伺いしたい。実際に問題は前進すると考えておられるのか、そうであるならばその根拠は何なのか、明確にお示しをいただきたいと思います。
私の知り得た限りでは、元駐日臨時代理大使もやった学者が、チフビンスキーという人ですが、ソ連側が最初に日本に千島列島の譲渡を要求したのは日ソ不可侵条約の交渉の際であった、こう書いております。日ソ不可侵条約の際にソ連が千島は失地だと言った資料は随分たくさんあります。これ、交渉に当たった松岡外相の復命書を初めいろんな人が書いております、これは私が読んだ限りのことですが。
昭和二十年八月九日に、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、満州、北鮮、樺太、千島に侵入し、そしてまた八月十五日、終戦後にも、ポツダム宣言に違反して、当然日本に送還すべき多くの軍人軍属、一部在留邦人を、シベリア奥深く運んで強制労働に服せしめた結果、約六十万人という抑留者の一割も死亡するという大変悲惨なことが起こったわけであります。
これは明らかに日ソ不可侵条約に違反をしているのです。そしてまたポツダム宣言、ソ連も当事国でありますだけに、もうすぐ帰さにやならないという、ほかの国はみんなそうしたでしょう。ひとりソ連だけがそういうことをしたのです。それはもう本当に厳しい生活でした。私のことを申し上げて恐縮ですけれども、私もあらぬ嫌疑を受けて四カ月半独房で暮らしたのです、監獄で、帝政時代のね。本当に屈辱を味わったのです。
私は何のために戦争に駆り出されて自分の青春をこんな体にしてしまったんだ、いや、私以上にそのままむなしく死んでいった連中はどうなったんだ、そう思ったときに、細川総理の侵略戦争という一言で片づけられたら、我々、ゆえなくして、日ソ不可侵条約を破棄して一方的に攻めてきたソ連、そこへ我々は拘留をされた日々を思うと、むしろ侵略戦争であったと言われるなら、我々がむなしく過ごしたソ連における五年間の補償をしてもらいたい