1994-06-02 第129回国会 衆議院 予算委員会 第15号
○藤井国務大臣 私は、ただいまお話のありましたドゴール・デノミのときの経緯、それからスミソニアン・レートを決めるときのいろんな議論、そういうのもよく承知をいたしております。また、尊敬すべき先輩、今お名前を挙げられたような方々がデノミ論者であることも知っております。
○藤井国務大臣 私は、ただいまお話のありましたドゴール・デノミのときの経緯、それからスミソニアン・レートを決めるときのいろんな議論、そういうのもよく承知をいたしております。また、尊敬すべき先輩、今お名前を挙げられたような方々がデノミ論者であることも知っております。
したがって、この昭和四十七年から若干の変化が出てきたのが、固定とはいえ三百六十円が三百八円のスミソニアンレートになったときから本当はかなりの変化が生じたのではないかと思っております。したがって、変動相場制における経済運営、こういうことになりますと、昭和六十年九月二十二日のG5というのが一つは期を画したかもしらぬ。
で、スミソニアンレートというのができまして、三百八円でございました。やれやれと思って、四十七年度予算というのはそれで組んだわけでございますが、その後四十八年になって、いわゆる完全に市場にゆだねようという変動相場制というものになったわけです。そのときの通貨の量と今日の量とは、それは大変な差がございます。
それは四十七年度予算のときにスミソニアン・レートができて、三百八円で計算して僕も安心した記憶を覚えております。 今度の場合は、私は、現時点でどの程度見込まれるかというとなかなか難しいのでしょうが、率直に言って歳入歳出両面で影響があると思います。歳入の問題で一番わかりやすいのは石油税、石油税は従価税でございますから、あれは半値になったからといって倍使うものではございませんし、あるだろうな。
すなわち、昭和四十六年の八月十五日、いわゆるニクソン大統領のドルの兌換停止というものに始まりましてから、四十七年度の予算、何ぼのレートで組むかというので非常に困りましたが、幸いスミソニアンレートで三百八円というものができましてそれで組んでまいりました。
それがだんだんいわゆる為替差損問題が出まして、それで一体予算をどうして組もうかと思ったことがございますが、その為替差損問題が今おっしゃった造船、海運等々でございまして、何とかと思っておったら、十二月でございましたか、いわゆるスミソニアン・レートというのができて、瞬間的固定相場三百八円というのができまして、あれでいろんな予算が一応組めるようになった。
○竹下国務大臣 まず、四十六年のいわゆるニクソン・ショックの後、四十七年度予算を組みます際には、一応ベースになったのは三百八円のスミソニアンレートであったわけでございますけれども、それにしても為替差損、為替差益の議論が随分出て、それでどうやら組めた予算であった。
今の、人為的という評価でございますが、実際非常に難しい問題だと思いますのは、私がちょうど昭和四十六年に内閣官房長官でありましたときに、いわゆるドルの兌族制停止が行われて、それで、ああでもない、こうでもないという議論をしながら一時フロートして、それからまたスミソニアン・レートができて、それからまたフロートして、結局変動相場制、こういうものができたわけであります。
それでしばしフロートして、それからスミソニアン・レートというもので三百八円に固定されて、そのときは大蔵大臣は水田三喜男先生で、私どもは関心がありますから、関心があるというよりはむしろわからぬといいますか、知識が乏しかったから、その知識を吸収しようという意味において関心がありますから、横目で眺めておりましただけの立場でありましても、やはり相場というのは市場が決めるべきものだということで変動相場制というものに
○国務大臣(竹下登君) 私の方から決意ということがございますが、先ほどもお答えいたしましたように、私は現実問題として、日本人の英知とか、あるいは実際三百六十円が三百八円のスミソニアンレートになったときの経験とかからいたしまして、その柔構造というのは、対応できるであろうということを信じております。
○国務大臣(竹下登君) いわゆる主要国が、今おっしゃいましたように、昭和四十六年、スミソニアン・レートというものがあり、そして変動相場制に移ってまいりまして、それから十二年たったわけであります。この間、変動相場制というのは、石油ショックのときも外的ショックを相場で吸収いたしまして、したがって経済の均衡をそれなりに回復するなどで有用な役割を果たしてきたと思っております。
その議論は済みましたけれども、さあ四十七年度予算をどうして組むか、こういうことになって、スミソニアンレートというのが三百八円で決まって、率直に言ってやれやれと、こう思ったことがございます。
○政府委員(的場順三君) 五十年に実は改定をさせていただきまして八年ぶりの改定でございますが、五十年に改定をしたときの為替レートというのは、実は当時スミソニアンレートでございまして、三百八円でございました。
そもそも、少し古い話になりますが、三百六十円の固定相場がいわゆる変動相場制、その間スミソニアンレート三百八円というのがございましたけれども、あのときに、今思い出してみますと、予算編成どうするかという話がございました。
それからもう一つ、別の事情でございますけれども、五十年のときの為替レートは実はスミソニアンレートでございまして、出時は三百八円でございましたが、その後為替レートがかなり円高に推移しておるというふうな実態も考慮いたしまして、先ほど一番最初に申し上げましたように、公務の円滑かつ適正な執行とできるだけ国費の節減、合理化を図るというところで、全体四〇%の増加に抑えたという次第でございます。
それで、結局その場合はスミソニアンレートがたしか十二月初旬に決まりましたので、三百八円という一応の基準のレートができた。しかし、その後変動したわけです。したがって、一定期間の数値をとって、それでもって予算編成の基礎とするという問題が今日まで継続しておる。
そのときからワイダーバンドがどうだとか、いろいろな議論をして、フロートして、一時三百八円のスミソニアン・レートでやってみましたが、結局結論はまたフロートになった。 それから十二年ですか、過ぎ去ってみますと、やはりあのフロート、変動相場制が果たした役割というのはよかったと私は思います。が、今おっしゃいましたような議論が五カ国蔵相会議では大体出なくなりました。
私どももその後、スミソニアンレートとか、いろんな経過を経まして、フロートになって、そしてそのフロート制というものが結局、世界全体で見れば二回の石油危機を体験しまして、各国の実体経済は大きな格差を生じました。しかし、この間、変動相場制というもののもとで、主要国の為替相場が機動的かつ円滑に調整されたため、いわば世界経済は激動を乗り切ることができたという評価は私はすべきだと思っております。
したがって、その当時結局三百八円というスミソニアンレートが決まったときにやれやれと率直に思いました。これが予算が組める一つの基礎になるな。そうして今度変動相場制というものに移行いたしまして、したがっていま日銀総裁からも述べられたようにまさにこれはやむを得ず、世界としてはあれしかなかったということでそれなりの効果を今日まで果たしてきたのであろうと私も思います。
スミソニアンレートを経て、すでに十年の歴史を経ている。しかし、ただ何分ほかの国と比べてみますと、日本とほかの国とは大変に失業率とかそういう問題が違っておりますので、そういうまだ各国のファンダメンタルズがいわば一定の基盤で議論ができない状態ではないかな。いわゆる盛田さんのよくおっしゃるワイダーバンドを設けたらどうだというのも、もちろん一つの見識だと思いますが、いま直ちにそういう環境にはない。
私自身の考え方を申し上げてみたいと思いますが、私は実は最初三百六十円がスミソニアンレートで三百八円になったときの官房長官をしておって、本当に戸惑いました。それからその後フロートして、当時世界的に言われておったのは、いま堀先生のおっしゃるようなまさに自然体であるべきものであって、介入などというのはダーティーフロートだ、こういうふうに言われておりました。
○国務大臣(竹下登君) それはまあ私が別に助け舟を出すわけでも何でもございませんが、固定相場制からスミソニアンレートになって、それから変動相場制になりました当時私は官房長官をしておりまして、一体何ぼで組んだと、予算でございますが、海外経済協力とか、あるいは外交官の給与を。そうすると三百六十円のときは非常にこれは予算の中が動くということがなかったわけです。
したがって、今度は七〇年代へ入りまして、そこでまさに、ドルの兌換停止から、三百六十円が三百八円というスミソニアン・レートになり、そうして変動相場制に移行した。そうして、七〇年代の歴史というのは、今度はOPEC等による油の売り手市場になって、どんどんどんどん油が上昇してきた。