1972-04-14 第68回国会 参議院 予算委員会 第11号
さらに借款で、サイゴンのディーゼル発電所の建設、それから技術協力といたしまして、チョウライ病院、サイゴン病院などに対する医療協力、それからカント大学の農学部に対する研究協力、主としてベトナム国民の民生の安定と福祉の向上ということに焦点を合わせまして、いままでやってきております。ちなみに、六九年から七一年までの援助の実績を平均いたしますと、年間約二百八十六万ドルでございます。
さらに借款で、サイゴンのディーゼル発電所の建設、それから技術協力といたしまして、チョウライ病院、サイゴン病院などに対する医療協力、それからカント大学の農学部に対する研究協力、主としてベトナム国民の民生の安定と福祉の向上ということに焦点を合わせまして、いままでやってきております。ちなみに、六九年から七一年までの援助の実績を平均いたしますと、年間約二百八十六万ドルでございます。
それからついでにですが、サイゴン病院に対しての供与というのは、どういうことでこれをやるようになったわけですか。
○政府委員(沢木正男君) サイゴン病院に対しましては、外科の専門家と、それから麻薬の専門家を一人派遣いたしております。それに伴う器材供与であるというふうに承知いたしております。
この予算を使いまして、その計画の一環といたしまして、サイゴン病院及びチョウライ病院に向けまして、日本政府よりベトナム政府を相手といたしまして、金額二千万円の薬を送ることにいたしました。これは東京及びサイゴンにおいて相手国政府に伝え、そうしてこの医薬品は、いまのところ、大体三月中旬に、商業機によりましてサイゴンに到着する手はずになっております。
○説明員(股野景親君) 御承知のように、ベトナム援助は医療援助が中心でございまして、当時ベトナムで日本の医療団を出しました病院、これはサイゴン病院でございますが、ベット数は約五百ほどございます病院で、お医者と名のつく人間がたった一人しかいない。そしてそのほかにはインターンが三人ぐらいしかいない。
サイゴン病院の院長のごときは涙を流さぬばかりにして感謝をしておりました。
サイゴン病院から逃げた、あるいは日本の総領事館に逃げたときに、日本の庇護をしました当時の総領事、今ゴ・ディン・ジェムの顧問になっている云々といったような点も大体御承知のようでありますが、そのゴ・ディン・ジェムと、それから松下光広氏との関係は仏国同盟を組織し、このコンデ侯を看板にして金を集め、あるいは運動をやります際にその中心をなしたのは松下氏であります。